絹人往来

絹人往来

製糸工場 社員一丸で固いきずな 伊藤 暢さん(76) 高崎市上里見町 掲載日:2006/12/30


愛用の絹のマフラーを手にする伊藤さん
愛用の絹のマフラーを手にする伊藤さん

 戦後の荒廃から復興めざましい昭和20年代半ば、東京繊維専門学校(現東京農工大)を卒業すると、製糸会社の群馬蚕糸製造、後のグンサンに入社した。
 振り出しは中之条工場の繰糸係。学生時代、夏休みの校外実習の場に同工場を選んだのが、その後の36年間、製糸とともに生きる転機となった。
 「工場に行って驚いた。働いているのは、繭から糸を取る女子ばかりで、男子社員はほんのわずか。繰糸係とは名ばかりで、さまざまな雑用を言いつけられた」
 大変だったのは、農家で生産された繭の受け入れ。
 「当時、あの広い嬬恋村のキャベツ畑は、ほとんど桑畑だった。草津と軽井沢を結ぶ草軽電鉄が走っていて、線路わきに旅館があった。蚕が繭を作る時期は、そこに何日も寝泊まりして、各農家から中学校の体育館に集められた繭をトラックで繰り返し工場へ運んだ」
 農家は春蚕に始まり、年に何度か蚕を飼う。工場へ運んだ繭は、乾燥して倉庫に保管する作業が待っている。このため「休暇はあまり取れなかった気がする」と言う。
 「工場は中之条に加えて、室田(旧榛名町)や下仁田など計5工場があった。生糸の生産量は、ピークの1962年に5工場合わせて1万2千俵(1俵60キロ)に上ったが、その後は下降線をたどった」
 特に高度経済成長期は、弱電などの製造企業が伸び、繰糸の人員確保に苦労を強いられた。
 「東北地方へ求人開拓に行ったこともある。農家から預かった子女は、全寮制で働いてもらうことになっている。高校の定時制に送り迎えしたり、社会人としての教育も私たちの役目だった」
 仕事は大変だったが、社員が一丸となり、固いきずなが生まれた。
 <高い煙突 朝日に映えて みんなが一つの 輪になって励むから 山が富士なら 生糸はグンサン>
 「私の作った歌詞に、当時の様子がうかがえると思う」
 最近、健康に対する絹製品の効能が注目されている。
 「シルクの腹巻きを愛用しているが、温かくて肌触りがとってもいい。元気でいられるのもそのおかげだよ」

(はるな支局 清水信治)