絹人往来

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養蚕 母の教え嫁ぎ先でも 長島 フサさん(83) 邑楽町藤川 掲載日:2008/08/30


養蚕をしていた当時の様子を説明する長島さん
養蚕をしていた当時の様子を説明する
長島さん

 「若いころは朝から晩まで働きづめだったけど、そのころ必死に働いて体が鍛えられたから、今も元気に農作業ができる」とにこやかに語る。
 1939年に小泉農業学校(現大泉高校)の女子部に進学し、英語や国語などの普通科目から農業などの専門科目まで勉強に励んだ。夏休みには1泊2日の養蚕実習もあった。
 農家に育ち、家の手伝いをしていたから農作業や養蚕はお手の物。「桑つみなどで戸惑う非農家の級友を尻目にどんどんつんで、みんなに感心された」と振り返る。
 非農家の級友の中には蚕を怖がる友人も多かった。「自分は子供のころから当たり前のように蚕を見て育った。友達が何で気味悪がっているのか分からなかった」
 日中戦争が激しさを増す中での学校生活には緊張感が漂っていたが、泊まりがけの実習は数少ない楽しみの一つだった。
 41年春に学校を卒業すると本格的に家を手伝い始めた。
 そんな矢先、太平洋戦争が始まり、男兄弟3人が徴兵され、残されたのは父親と高校生の弟と女性だけ。「父親が役場に働きに出ていたので女手だけで農地を守らなければならなかった。畑を耕す力仕事から手間のかかる養蚕まであらゆることをやり、休む暇はなかった」。普段は男のやる桑の木を切る仕事も必死でやった。
 戦後、48年に結婚。夫は勤めに出て昼間は不在、しゅうとめは体が悪く、嫁ぎ先でも主力になって農作業を担った。
 実家で母親から教わった方法で養蚕をやったが、不安な点も多かった。「続けられたのは、経験豊富な親せきや養蚕組合の組合長さんが桑の量やタイミングなどをアドバイスしてくれたから」と語る。
 農閑期の冬場も、養蚕用のまぶしや俵を編む仕事があり、1年中働きづめだった。しばらくして養蚕はやめたが、今でも現役の農家として働き続ける。
 「苦しいとかやめたいと思ったことはほとんどなかった。若いころ頑張ったおかげで、今は暮らしに余裕があるし、80歳を越えても農作業ができるほど元気。本当に幸せ」。笑みがこぼれる。

(大泉支局 宮村恵介)