中野絣 誇れる技術を後世に 小久保 しず子さん(66) 邑楽町中野 掲載日:2008/08/16
後世に中野絣を伝えたいと話す
小久保さん
「昔、邑楽町で作られていた中野絣(かすり)は“西の大和、東の中野”とたたえられるほど品質が良かった。全国に誇れる技術が地元にあったことを後世に伝えたい」。中野絣会会長の小久保しず子さんは同会の意義を語る。
邑楽町中野一帯は明治から昭和初期にかけて、木綿で作った白絣の産地として有名だった。昭和初期ごろからは生活様式が多様化し、絹を主な材料にした高級な中野大島絣が主流になった。中野絣会は太平洋戦争の影響や洋服の普及で衰退した中野絣や中野大島絣の“記憶”を残すために活動している。
「普段、機織りや手芸をしている。古い家の改築や取り壊しの時にいらなくなった機織り機や着物をもらい、公民館や小学校の空き教室に保存している」
小久保さんが中野絣にかかわるようになったのは1983年ごろ。「それまではあい染めサークルをやっていたが、町公民館で開かれた機織り講座に参加したのが縁で、中野絣会の立ち上げにかかわるようになった」
当時活動していた中野絣保存会が解散し、同会所有の機織り機を町公民館が引き継ぎ、講座を開いた。講座修了後、受講生を中心に中野絣会を設立、小久保さんが運営を担当するようになった。
「新聞やテレビでも取り上げられ、多くの人が毎日のように集まって機を織っていた」。町公民館はその後も定期的に機織りの講座を開き、毎回10人単位で新規会員が増えていった。
技術習得にも熱心だった。「県立日本絹の里が開館した時には、繭から生糸をとって、それを染め上げ、反物にする講座に参加。足利まで機織りの技術を教えてもらいに通ったり、いろいろなことに挑戦してきた」
機織りをするペースは落ちたが、毎週木曜日に集まっている。裂いた反物を緯糸(よこいと)にして新たな反物を織っていく「裂き織り」、布草履、布バッグなどにも取り組む。
「最初は何の気なしに参加していたけど、文化を継ぐことは大切。腹をくくって一生やっていくつもり」と覚悟を語る。「今までに集めた機織り機や反物などを収蔵できる博物館を作りたい」。夢は膨らむ。