絹人往来

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養蚕指導 肥料増やして桑増産 小島 恒男さん(69) 太田市成塚町 掲載日:2008/05/14


「蚕に病気を出させないように指導することが大切」と話す小島さん
「蚕に病気を出させないように指導することが大切」と話す小島さん

 約38年間、強戸、沢野、鳥之郷の各地区など、太田市を中心に養蚕指導員として活躍してきた。
 代々養蚕業を営んできた家に生まれ、小さいころから仕事を手伝っていた。「指導員になるのは中学校1年生の時からの夢だった」
 小泉農学校(現大泉高校)を卒業後、1度は実家に戻り農業を手伝った。しかし夢をあきらめきれずに、新田太田養蚕農業協同組合連合会に就職した。「親に迷惑をかけずに就職できてよかった」と振り返る。
 指導員になったのは24歳のころ。「初めは年上の人を指導することがほとんどだったが、無我夢中でやっていたのでそんなことは気にならなかった」
 過酷な仕事で、養蚕の季節になると毎年体重が約5キロ減った。1度に何軒も受け持つため、行ったり来たりしなければならなかった。指導してきた養蚕農家は合計で2000軒以上にもなるという。
 「指導で1番大切なことは信頼関係を築くこと。いかに蚕に病気を出させずに繭を増産させるかがすべてだった。繭がたくさん取れれば感謝されるが、不作の時には嫌な顔をされることもあった」
 沢野地区を担当していたころ、年間生産量が450キロだった養蚕農家を、8年かけて3トン近くにまで引き上げた。春蚕、夏蚕、晩秋蚕の年に3回育てていたところに、遅春、初秋、晩々秋、初冬を加え7回にした。
 「回数の増加により多くの桑が必要になった。桑園を借り入れて面積を拡大したほか、肥料の量を増やして桑の収穫量を増やした」。この桑の増産方法は、当時の養蚕の専門雑誌「蚕糸の光」に取り上げられた。
 そんな工夫のかいもあり、その養蚕農家は農林大臣賞を受賞した。ほかにも1人、指導した中で同賞の受賞者がいる。退職した1997年、自身も大日本蚕糸会から養蚕指導功労賞の表彰を受けた。
 「指導員として一筋でやってきた仕事を評価された。それよりも、指導していた人が受賞したことが1番の思い出。自分のことのようにうれしかった」

(太田支社 大塚智亮)