下撚り 重要な工程に緊張感 知村 純雄さん(81) 桐生市三吉町 掲載日:2006/09/13
撚糸機の部品を前に下撚りの技法について語る知村さん
「下撚(よ)りは最初の工程だから、ここでミスがあると全部がだめになる。出来上がったお召しに問題があると、いつも下撚り屋が文句を言われる。失敗をするとおやじにげんこつで怒られた」
桐生の高級絹織物「お召し」をつくる最初の工程が、糸に一メートルに300回の撚りを掛ける下撚り。祖父の代から撚糸(ねんし)業を始め、知村撚糸の3代目を継いだ。
「お召しの工程はとても複雑。下撚り、先染め、のりづけ、揚げ撚り。糸の段階でも多くの職人がかかわっていた。機屋の注文によってさまざまな撚り方があって、一つ一つの作業がとても繊細。特に下撚りは神経を使った」
15歳から家業を手伝い、20歳を過ぎてから本格的に取り組み始めた。
「本当は機械や電機に興味があったから、撚り屋は継ぎたくなかった。でも、戦争から帰ってきたら他の会社はだめで、自分の家が繁盛していたから継ぐしかなかった」
戦後、お召しを中心に着物の需要が高まる中、市内の撚り屋の数はまだ少なかった。
「欲をかけばいくらでももうけられた。仕事もふんだんにあって、月に4、5件の注文をこなしてた」
景気の回復とともに物価も上昇。桐生には「お召し景気」「ガチャ万」と言われる好景気が訪れた。知村撚糸も家族を含めて社員が5、6人になり、多くの撚り屋が進出してきた。
「高値でも、言い値で買い取ってくれた。特に、撚りが複雑なお召しは加工賃が良かった。お召しブームのおかげで、あのころはえらく忙しかった」
その後、最盛期は100を超えた撚り屋も、お召しの衰退とともに減っていった。知村撚糸も伊勢崎のかすり、ネクタイ、博多の帯などに使う緯糸(よこいと)の仕事を続けたが、1993年ごろには撚糸機を止めた。
「私の家は1948年ごろまで、水車で撚糸機を回していた。それが桐生で最後だったと思う。昔も今もお召しは桐生を代表する織物。その重要な部分を担った下撚り屋として、あの緊張感は忘れられない」