絹人往来

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三階屋 かご担ぎ、はしご上る 小林 貞夫さん(75) 中之条町赤坂 掲載日:2006/07/27


典型的な養蚕農家「三階屋」の前に立つ小林さん夫妻
典型的な養蚕農家「三階屋」の前に立つ小林さん夫妻

 中之条町赤坂で「三階屋(さんがいや)」と言えば地元住民で知らない人はいない。養蚕の盛んなころ建てられた木造三階建て。延べ面積約600平方メートル。さらにその上に養蚕に欠かせない天窓を備えた典型的な養蚕農家である。
 小林貞夫さん(75)は1877(明治10)年、4代前の先祖が2代がかりで完成させたと聞いているという。夏の暑さから蚕を守るため、当初はクリの板で屋根を葺(ふ)き、40年ほど前になって瓦葺(かわらぶ)きに変えた。それから5年後、繭価格の低迷から小林さんは養蚕を止めた。
 「昔の人が言うには、大正時代の養蚕が盛んだったころ、蚕の作業が始まる季節になると、越後から三国峠を越え、さらに大道峠を越えて、出稼ぎの女の人が次々にやって来た」
 往来を歩いてくる人たちに声をかけ、2人、3人と雇い入れ、家族も総出で作業をした。最盛期は5、6人を雇い、年間で4回から5回の繭をあげたという。多いときは「1回の養蚕で繭650キロ」にもなり、旧名久田村で一、二を争う養蚕農家になった。
 小林さんとともに養蚕に汗を流した妻のとみさん(76)は「遅い霜などにやられないようにと比較的温かい4キロほど離れた桑畑で育てた葉を摘み、かごを背負って蔵を改造した自宅近くの貯蔵庫まで運んだ」。さらに、そこから母屋までは3メートルほどの高低差があり、母屋の二階と三階の蚕室まで運ぶとなると、はしごで上りながら「前ににぶつかり、後ににぶつかり、そりゃおおごとだった」と大規模ならではの苦労話も。
 養蚕の作業は女性の労働力に頼ることが少なくなかった。「食べるものだって、みそ汁とご飯だけというわけにはいかないし、子育てもしなくてはいけない。寝る時間が無くなってしまうのだから蚕はとにかくきつかった」と本音をのぞかせるとみさん。桑を運ぶかごに取り付いてくる子供たちを、かごをゆすってあやしながら作業を続けた。
 「出荷の時を迎え、繭を農協まで背負って行った。目方を量りながら、ことしは良くできたと思える時が最良の時」と話す小林さん。「固形飼料の登場や養蚕の機械化など夢のまた夢の時代だった」が「二人丈夫でよく頑張ったと思う」と、とみさんをいたわった。

(中之条支局 湯浅博)