桐生お召し 深みある色と高級感 須藤 正夫さん(78) 桐生市東 掲載日:2006/06/10
工場に保存してある桐生お召しを手に当時を語る須藤さん
「全国の問屋がほとんど桐生に寄っていった。みんなお召しを求めていた。『どうしても譲ってほしい』と100円札の束を置いていく問屋もあった」
1950年代の桐生の隆盛が伝わってくる。
「お召しの着物は当時6000円した。会社員の1カ月分の給料だった。銘仙の3~5倍と高値なのに、作ったそばから売れていった」
経営していた「須正織物」は従業員35人、織機25台がフルに動いていた。高級お召し一筋で、「華やかな刺しゅうが縫い取られた縫取お召しは会社の主力商品だった。おしゃれな芸者さんをはじめ、一般の人にも親しまれた」。
お召しの表面はちりめん状で、凹凸に光が当たって乱反射する。深みのある色合いと高級感がよそ行きの着物として喜ばれた。
「横糸に強い力を加えて撚(よ)った強撚糸を使うのが特徴だった。桐生のシンボルとなっている八丁撚糸機が現役で、大量のお召しが生産された」
一時は、友禅など染め物に押されたが、コートとして人気が復活。着物の上に羽織るため、お召しのしっかりとした生地が好まれた。
「桐生の機屋はどこも常に流行のデザイン、新しい技術を考えていた。努力すればしただけ売れた。織物業者が一番楽しかった時代だった」
「うちも、もじり織りに文様を織り込んだ薄手の紋紗(もんしゃ)を研究し、特許を取得した。夏用の着物としてよく売れた」。特許の利用は約50社に上った。
70年代に入ると、様子は一変した。
「女性が車を運転する時代になった。着物離れが一気に進んだ」。お召しを扱う問屋自体がなくなった。桐生では絹で着物地を織る機屋は数えるほどになった。お召しの復活は桐生産地の切なる願いだ。
「着物を着る人がめっきり減った今、お召しの復活は難しい」。それでも工場には百枚を超える生地を、それぞれの織り方と糸使いを記して保存してある。
「お召しの技術は後世に残す価値がある素晴らしいものだ。何十年後かに、これが宝と気付く日がくるでしょう」