繭糸業 1日100軒の農家指導 山崎 義朗さん(68) 沼田市上原町 掲載日:2007/12/08
繭出荷用の綿袋を手に「農家の
人とつきあいは今でも私の財産」
と語る山崎さん
一家は代々続く繭糸業者。養蚕農家から運ばれる繭を「ゆたん」と呼ばれる大きな白い綿袋に詰めて、全国へと出荷した。店の前には真っ白な“山”がいくつも重なった。
「大きな袋が並ぶ収穫期の風景は私にとっての原風景。繭の中で生まれ育ったから、最後の1粒を出荷するまで、繭屋を続けていこうと思った」
1967年に親類が経営する繭糸会社に就職。取引先の農家に協力するため、独学で県蚕業技術員の資格を取った。利根沼田地区をはじめ、佐波郡内や太田市の農家で、桑の木の仕立て方、蚕の消毒法などを指導した。1日で100軒の農家を訪ね歩いた時もあった。
「当時は品質の高い繭を作ろうとする農家の熱意と地域の連帯感がすごかった。繭の確保で他県のライバル会社との競争も激しく、少しも手の抜けない仕事だった」
71年5月ごろ、利根沼田地区で大霜害が発生。霜焼けした桑では蚕を育てられず、桑の葉探しに前橋や渋川を農家の仲間とともにトラックで駆け回った。枝切りばさみを持つ手が握れなくなるほど、朝から晩まで桑を切り、餌不足の危機を回避した。
「当時、餌が足りなくなると、蚕を処分しなければならなかった。育てた蚕を処分せずにすんだと農家が喜んでくれたことが1番うれしかった」
最盛期を迎えた70年代。出荷時には、1日で1500キロもの繭が集まった。朝六時から選別を始めても、トラックへの積み込みは真夜中までかかった。
「繭がたくさん集まるところを見るのが好きだった。今までの苦労が吹き飛ぶ瞬間だった」
86年に独立して、自分の繭糸会社を立ち上げた。付き合いのある農家は会社が変わっても、取引を続けてくれた。
「農家の人とはよく山へ山菜採りやイワナ釣りに出掛けて、仲良くさせてもらった。繭屋は日ごろの人間関係で成り立っているものだと思った」
繭糸業を続けようと、高知県まで出荷先を探しに行ったが、最後の取引先が廃業し、2005年に撤退した。「撤退してから、いろいろなものを売っているが、やっぱり1番いいのは繭糸。育てる人と売る人が幸せになれる商品は他に見つからない」