繭切り 一心不乱に羽化手助け 福島 ヨリさん(87) 伊勢崎市境島村 掲載日:2006/10/6
かつて島村蚕種があった場所に建てられた「島村蚕種業績之地」の碑の前に立つ福島さん
「チョウが大ごとしないで、繭から出てくることができるように、繭の両端を切るのが繭切り。かみそりの刃のような薄い片刃の刃物で、切り落とした。器用な人は繭の片方を切ると、繭をくるっと回してもう一方を切り落とした」
伊勢崎市境島村(旧境町島村)に1988(昭和63)年まであった島村蚕種協同組合(80年から島村蚕種株式会社)で繭切りに携わった。61年から66年まで6月と7月の年2回、繭の中のさなぎが羽化してチョウになることを手助けした。
「4人ずつ並んで、運び込まれてくる繭を切った。蚕種の建物の長い廊下の端から端まで、新館と旧館合わせて1日70人から80人が一斉に作業した。境の町中から来る人はバスで送り迎えだった。渡し舟を使って利根川を渡って来る人もいた。朝8時から夕方の5時まで、みんな一生懸命働いた」
グループの責任者も務めた。地元島村以外の人たちは5時で作業を終えて帰って行った。だが、蚕という生き物が相手。「作業は明日回し」という訳にはいかなかった。責任者ということもあってその日持ち込まれた繭を切り終えるまで、仕事は続いた。
「7月の忙しい時は毎年15日ごろ。お盆と重なったが、仕事を休んだことはなかった。本当に忙しかった。でもつらいと思ったことは、一度もなかった」
「繭を切る機械が導入されたことがあった。でも、機械は繭の中のさなぎまで切ってしまって、すぐに使われなくなった。機械より人間の方が、私たちの方が、きちんと仕事ができた」
蚕種で栄えた島村を支えた自負がにじむ。
昨年、机を処分しようと中の物を整理していたら、繭切りに使った刃物の箱が出てきた。中にはさびないように紙に包まれたままの刃8枚が入っていた。
「誰にも負けるものかと、一心不乱に繭を切り続けたあのころが思い出された。今は両ひざが痛くて歩くことも不自由になったけど、蚕種の建物の中を跳びはねるように走っていた自分の姿が浮かんできた。このかみそりのような刃は繭切りだけじゃなくて、収穫したホウレンソウの根を切るのにちょうどいいんですよ」
当時の輝きをそのままに残すその刃は「まだまだ元気で働けると語りかけているようだ」という。