絹人往来

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競争心 「番付表」で技術向上 塚越 清司さん(77) 太田市由良町 掲載日:2007/10/04


蚕室として使った建物跡周辺で振り返る塚越さん
蚕室として使った建物跡周辺で
振り返る塚越さん

 「『どこんちはいくら取れた』ということがよく近所の話題になった。ほかの農家に対して自然と競争心が出た」
 米麦養蚕を生産する農家に生まれ、高校を卒業するとすぐ家業を継いだ。養蚕は朝早く、夜遅い重労働だったが、「ほかの農家に負けたくない」という思いが仕事の原動力になった。
 養蚕が好きだった父の凱平さん(故人)の姿を見て、基本を学ぶ。蚕が育つのに最適な温度はどれくらいかデータを取り、失敗しても次の機会に生かした。
 「地域に組合組織があり、商品にならない蚕を作ると、指導員から、下手だなと言われるのが悔しかった」
 さらに、競争心に火を付けたのが「番付表」だった。
 「生産量が多い農家の順に、『横綱』、『大関』…と順位をつけて一覧にし、配布された。番付はどこの農家も張り出して見ていたから、どこが腕がいいか分かる。うちは最も多い年で1トン半ほどだった。最高位で大関止まり。横綱になれなかったのは残念だった」
 典型的な家族経営だった。しかし、蚕が発育し繭になる上蔟(じょうぞく)の時期には、子供のほか親せきや近所の主婦が手伝いにきた。回転蔟まぶしに入れたり、繭の「けば」を取ったりする仕事には、多くの人手が必要だった。
 「相手は虫。夜に動きだせばこっちも動かなければならない。農業の中で、そこがほかと異なる点だろう。年5回のうち、よく取れる春と晩秋は特に忙しかった」
 1ヘクタールを超す桑畑を所有していたが、1987年に胃の3分の2を切除する大手術をしたのを機に、養蚕から手を引いた。
 「重労働より健康を選んだ。桑畑だった農地には野菜を作るようになった。安価な中国産の流入で、養蚕業の潮目が変わった時期であり、ちょうど良かったのかもしれない」
 自宅敷地内で蚕室として使っていた建物はその後火事に遭い、思い出をつなぐ養蚕農具はすべて焼失してしまった。
 「寒過ぎても暑過ぎても蚕はうまく育たない。桑を食べ過ぎると病気になることもあった。大変だったけど自分なりに頑張ったもんだね」

(太田支社 塚越毅)