絹人往来

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糸引き 熱さに耐え、冬の内職 角田 房江さん(75) 渋川市赤城町長井小川田 掲載日:2007/09/09


自宅の糸屋で大枠にスイッチを入れる角田さん
自宅の糸屋で大枠にスイッチを入れる角田さん

 「蚕の晩秋が終わった後、冬の間は手が空くから、ここいらの人は小遣い稼ぎに糸引きをした。前橋の方から糸繭商が来て、中国から仕入れた繭を配った。夜なべして一生懸命にやったよ」
 1958年に養蚕農家に嫁ぎ、3人の子供を持った。70年代に入ると、長井小川田1帯では糸引きの請負が盛んに行われた。農閑期に現金収入を得られる貴重な内職だった。子供に手がかからなくなり、糸引きを始めることにした。
 「長野県の糸引き工場で働いていた人がいて、みんなでやり方を教えてもらった。実家の母や祖母も家でやっていたようだったけど、それまでよく知らなかった」
 当時は共同飼育場を利用して蚕を育て、自宅で回転まぶしなどを使い繭にした。作った本繭はそのまま農協に売った。自分たちで糸を引くことはなかったという。
 「中国産は本繭より質が低くて、太い糸しか引けない繭。みんな“ぼろ糸”って呼んでいた」
 糸引き作業をする自宅の糸屋では石油ストーブで釜に湯を沸かし、中に繭を入れてかき回した。手で回して糸を集める座繰りに小枠という木の枠をはめ、いっぱいになると別のものに付け替えた。作業中は常に蒸気で手を熱されるのでたらいに水を張り、時々手を差し込んだ。
 「ともかく熱い。手は動かしっぱなしで、とても暑い季節にやれる仕事じゃないよ」
 糸引きを5年ほど続けた後、80年に農家を辞めて近くの工場に勤務した。夫が他界し、繭の相場も下がるなどこれ以上は厳しいと判断した。
 「66歳まで外で働いてから、もう1度糸引きをやることにした。繭は同じ中国産だけど、質が随分と上がって技術も必要になっていた」
 手渡されたのは以前のぼろ糸ではなく、真っ白な繭だった。しかも、素早く引いて細い糸にしないと売り物にならない。
 「朝5時から湯を沸かして、1日に小枠で4つか5つやったよ。右腕の筋がみんなはれたんで去年で辞めてしまった」
 糸屋にはまだ、小枠の糸を1束にまとめるための自動式の大枠など道具が残っている。
 「ラジオで好きな曲を聴きながら働いた。根気仕事だったからね」

(渋川支局 田中暁)