繭搬送 荷崩れ防ぎ悪路抜け 笠原 稔さん(84) 片品村越本 掲載日:2007/06/24
自ら立ち上げた運送会社の看板を前に「繭を積んで峠を越える際は、ずいぶん緊張したよ」と語る
笠原さん
戦後間もない片品村で25歳の時に運送会社を創業。利根沼田地域で産出される繭を富岡製糸場まで運んだ。
「実家が養蚕農家で子供のころよく手伝った。このへんの農家のほとんどは養蚕をやっていたけれど、運搬は馬が中心でトラックを運転できる人数は指折りだった。車を使った方が繭をたくさん運べるし、絶対に必要だと思ってね。20歳の時に高崎の教習所で習って免許を取った」
免許を取って間もなく徴兵され、2年後に終戦。帰郷して生活が落ち着いたのを機に運送会社の創業を決意した。トラックを5台購入し、材木や農作物などの物資と一緒に繭を運んだ。
「当時はまだ木炭車。米国製トラックがほとんど。運転席が大きめで最初はハンドルに手が届くのがやっとだった。運送は1人。朝5時に出て、帰りは夜になる。春先はボディーのすき間から入る風が冷たくてね。たくさん上着を着込んで運転した。夕立が多くて、荷台の繭にかぶせるシートは欠かせなかった」
運搬する繭は、沼田市や旧利根村、旧白沢村などのものが多かった。荷崩れしないよう注意して、沼田から渋川、安中を抜け、富岡を目指した。特に峠や急な上り坂、狭いトンネルでの運転は気を使った。
「トンネル内は一方通行。先にライトを点滅させた方が優先だった。肝を冷やしたのは、製糸場手前にあった急な上り坂。1度、そこの手前でエンジンが焼きついて、ふたを開けたら火を噴いた。荷台まで燃え始めて、すぐにバケツで水をくんできて消火した。運良く繭に火は移らずにすんだけれど、あの時は慌てたよ」
繭の運搬は5年間続けた。道路網の整備や自動車の普及とともに次第に需要が減少。荷物は鉱石や材木など県外向けの長距離輸送に移っていった。運送業は50代後半まで続けた。
「繭を積んで製糸場に着くと、大きな計量器があってね。トラックごと乗って重さを計った。舗装道路もろくになかった時代なのに大きな設備でびっくりした。工場もずいぶん立派でモダンな印象だった」