絹人往来

絹人往来

養蚕指導 大規模、省力化に奔走 角田 竹一さん(80) 東吾妻町五町田 掲載日:2007/08/02


県蚕業事務所職員協議会から受けた表彰状を手にする角田さん
県蚕業事務所職員協議会から受けた表彰状を手にする角田さん

 旧安中蚕糸学校(現・安中実業高校)で養蚕技術を学んだ。農業会吾妻支部を振り出しに40年間、前橋地区や北毛地区で養蚕作業の省力化、機械化に力を注いだ。
 「小学校を卒業するころ、養蚕は農家の有力な現金収入源で、農業経営の柱でもあった。父親の『技術を学んでおけば、きっと将来役に立つ』という言葉に従って安中蚕糸に入学した」
 同校は当時、6年間で卒業する1部と3年の2部があった。高等科から進学したため、2部に入学した。初めて家を離れ、寄宿舎で寝起きして養蚕技術を身につけた。
 「技術を生かして農業会に勤務したが、同会の解散を契機に、農林省群馬作物報告事務所を経て県の地方事務所に移った」
 農政部門に所属し、養蚕関係の仕事に従事した。吾妻蚕業技術指導所、中之条蚕業取締所の職員も兼務し、養蚕の技術指導から行政指導まで幅広く担当した。
 「まずは、それまで生産農家がそれぞれの家でやっていた1齢から3齢までの稚蚕を共同で育てる稚蚕飼育所の普及を手がけた。また、そこを順調に運営するため、桑の葉を確保する共同桑園や集団桑園の造成も積極的に計画したが、広大な敷地を確保するのが難しかった」
 終戦直後から1980年代まで、吾妻郡など北毛地域の農家にとって、養蚕は貴重な産業だった。
 「省力化技術を導入して、近代的な養蚕を目指した。農家にも積極的な意欲があり、集団桑園導入や給桑台車採用、人工飼料の利用、自動収繭機普及などが当時の養蚕指導の中核となっていた」
 農政の課題として、大規模農家の育成が養蚕でも求められ、大型養蚕農家の実現を図った。
 「農家にとって機械化は実現したい夢だったが、設備投資が必要で、資金調達も容易ではなかった。各農家の経営規模や経営実態をにらみながら、それぞれの農家にあった指導をするのに苦労したのが思い出。でもやりがいがあった」
 退職後、県蚕業事務所職員協議会から功労表彰され、苦労が報われた。

(中之条支局 湯浅博)