絹人往来

絹人往来

整理 最盛期は睡眠3時間 上岡 健城さん(69) 桐生市東 掲載日:2006/12/22


湯のし機に座り、当時を振り返る上岡さん
湯のし機に座り、当時を振り返る上岡さん

 反物が商品になる前の最後の工程。湯通しして緯よこ糸ののりを取る「シボ取り」を行った後に乾燥させ、蒸気を当てながらバラバラに縮んだ反物の幅を同じ長さに引き伸ばす。単純のようだが、品物の価値が決まる作業。緊張感がいつもあった。
 「いろんな人がかかわっているから、それを無にすることはできない。だから、見栄えのいい物に作り上げなければいけないんだ。腕の見せ所だった」
 姉5人のあとに生まれた初めての男子。父の跡を継ぐことは当然のことだった。中学1年の夏休みから手伝い始めた。一つの反物で「湯のし」を行うのは三回り。そのうち二回りを任されていたが、卒業時には三回目の仕上げも担当するまでに腕を上げた。
 「よりが甘いと時間をかけてシボ取りした。糸の質、織り方、季節によって蒸気の当て方や伸ばす方法を変えた。特によりのあるお召しは、技術が必要だったから苦労した。また、各工程の職人に注意すべき点を指摘できるように、反物になるまでの全工程のやり方や理屈を学んだ」
 1950年代後半まで最盛期が続いた。睡眠は平均3時間で、休憩は食事の時だけ。そこまでしても1日40反を処理するのが限界だった。だが、100を超える反物が容赦なく日々運ばれてきた。
 「手は火膨れの上に火膨れができて、針でそれをつぶしながらやった。しまいには指が太くなり、甲羅のように硬くなった。熱した油の中に手を入れても何も感じなくて、素手で空揚げを作れるほどだったよ。忙しくて機械でやることもあったが、手でじかに触らないと“味”の良しあしが分からない。体を犠牲にしてでも、そこにはこだわった」
 桐生織伝統工芸士。作業を続けた湯のし機の正面の装置には、反物を回転させるため、レバーを絶妙のタイミングで回した姉のクニイさん(74)や妻の静子さん(67)がいた。
 「姉や妻が二人三脚でやってくれたからこの名誉ある仕事が続けられた。京都の問屋に『あそこへ頼めば完ぺき』と言われたり、東京のデパートで、手掛けた品を見るとうれしかった。何より機屋に信用されたことが誇りだね」

(桐生支局 浜名大輔)