絹人往来

絹人往来

梅雨対策 湿気大敵、細心の飼育 岡部 英一さん(76) 太田市強戸町 掲載日:2007/06/16


 毛羽取り機について説明する岡部英一さん、美津栄さん(右から)
毛羽取り機について説明する岡部英一さん、美津栄さん(右から)

 米麦養蚕を手掛ける農家に生まれ、人生の大半を養蚕にかかわってきた。春、初秋、晩秋の年3回だった飼育ペースを、昭和30年代に入ると相場の上昇を背景に、夏蚕を入れて年4回に増やした。
 6月の田植えを終えて始まる夏蚕は梅雨の時季に当たり、雨露が飼育作業の妨げになった。
 「乾いた桑を蚕にくれたいんだが、乾燥させる時間が無くてやむを得ず、ぬれ桑をくれることもあった。だから、なるべく軒下に置いたりして、露を切るようにした」
 蚕を飼う場所は、蚕座と呼ばれ、土間を使っていた。蚕座がぬれるとカビが生え、蚕の病気を引き起こす原因になる。乾燥剤をまいたり、風通しを良くするために、こまめに窓を開閉したりして対処した。
 夏蚕は飼育開始から、繭になる上蔟(じょうぞく)まで22日間。それまでに蚕は四回脱皮を繰り返す。気温が高い分、ほかの時季より早いペースで成長するため、桑の消費も早い。ぬれた桑をあげないようにするため苦労した。
 「晴れ間になると、桑畑に飛んでいって桑摘みをした。桑をくれるのは1日4回。気温が低くて、蚕が活発でないと2回しかくれない時もあった。夜が明けていれば、どんなに朝早くても桑摘みをやった」
 養蚕農家としての歴史は、少なくとも4代前にさかのぼる。子供のころ、つらい仕事だと思っていたが、農家の跡取りとして養蚕の仕事を自然と受け入れた。父の晴平さん(故人)、妻の美津栄さん(72)と家族3人で飼育してきた。自身が養蚕にかかわった期間は半世紀を超える。
 「蚕は『おこさま』と呼ばれていた。蚕の間に寝たりして、一緒に育ったようなものだった。1994年に辞める際、百年以上続けた養蚕を自分の代で終えるのか、とためらいもあった」
 自宅には出荷前に繭の形を仕上げる毛羽取り機が残っている。養蚕が盛んだったころを物語る数少ない“生き証人”であり、手放すことはできない。

(太田支社 塚越毅)