絹人往来

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繭買い取り 用具と歴史後世に 卯野 経雄さん(75) 渋川市赤城町津久田 掲載日:2008/09/12


現在は赤城歴史資料館で解説員を務める卯野さん
現在は赤城歴史資料館で解説員を務める
卯野さん

 1960年代、国内蚕糸業は大きな盛り上がりをみせ、養蚕県として知られた本県では30社近くの製糸会社が原料シェア拡大のために出張所を構え、契約農家獲得に明け暮れていた。
 そんな時代の真っただ中の62年に神戸生絲(きいと)に入社、原料課に配属された。農家と直接交渉する営業マンとして、激烈な競争に身を投じた。
 「父が農協で長年蚕糸関連の仕事を担当しており、私も県立蚕糸高(現安中総合学園高)を卒業して、自然とこの世界を選んだ」と振り返る。
 「すでに合成繊維のレーヨンは登場していたが、神戸生絲館林工場ではなお年間約1200トンの繭を加工していた。その原料を集める仕事はやりがいがあった」
 受け持った地域は地元の旧赤城村のほか、沼田市や旧新治村、吉岡町など。各戸、各グループごとになじみの会社があるなかでゼロから営業を始め、約300戸から年間100トン以上を集めるまでになった。
 「とにかく朝から晩まで農村を回った。蚕の掃き立ては『春は里から、秋は山から』といわれ、自分も地域ごとの時期に合わせてあいさつに行った。繭の買い取り額は協定で決められ、各社横並び。人とのつながりだけが武器だった」と当時を思い起こす。
 毎年、館林工場の工員を募集するのも大事な仕事だった。
 「相手は中学を卒業したばかりの少女が大半。進学したくても家庭の経済状況でかなわない子が多かった。近くに定時制高校があり、仕事をしながら就学できるのが館林工場の魅力だった。私も北毛地域から大勢勧誘した」
 自身は93年3月に定年で退職するまで、営業マン一筋で過ごした。退職後は埋蔵文化財の保護活動に携わり、2005年に赤城歴史資料館ボランティアの会を設立、会長として展示されている養蚕用具の解説などをしている。
 「私の時代は蚕糸業が好調だった。そういう意味では、桑っぱを食べて大きくなる蚕に育てられたようなものだ。今では生産用資材を作る会社も姿を消したが、現存している用具と歴史は伝えていきたい」

(渋川支局 田中暁)