絹人往来

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製糸場の瓦 当時の技術力に敬服 坂本 豊さん(54) 富岡市富岡 掲載日:2007/05/02


「かわら屋」ののれんの前で、父の使った瓦用金づちを手にする坂本さん
「かわら屋」ののれんの前で、父の使った瓦用金づちを手にする坂本さん

 「片倉(製糸場)の瓦は特殊だったようだ。瓦小屋に在庫をストックし、片倉から頼まれると、父はそれを持って補修に出掛けていった。製糸場のほかに、工女の墓が立つ龍光寺や海源寺の屋根も葺(ふ)いた」
 代々続いた瓦職人の家庭に育った。初代は埼玉・草加の出身で、旧官営富岡製糸場の着工に合わせて1870(明治3)年に来県。墓碑銘には2代目(八五郎さん)以降の名が刻まれており、この時代から富岡に定住したらしい。
 「鍛冶屋、畳屋、桶(おけ)屋…。製糸場のためによそから来た家は多い。今のような情報網がない時代。鉄道もない。集まるだけでも容易ではなかっただろう」
 「歴代、製糸場とのかかわりは深く、戦時中、勤労奉仕をした者もいた。祖父の貞次郎は華道の家元。工女が習いに来ていたと聞いた」
 1998年に他界した父、庄吾さんは富岡を中心に西毛一円の仕事を手掛けた。
 「物心ついたころ、家に丸ハンドルの軽3輪車、コニーがあった。仕事着に地下足袋を履き、瓦を積んで、バラス道を運転していった」
 製糸場の中にあった片倉の社宅に同級生が住み、中庭で棒を振り回して遊んだ。遊び場だった製糸場に立つ長大な繭倉庫や繰糸場の建築技術に今、あらためて敬服している。
 「瓦の枚数だけでも膨大なのに、建物は傾いていない。重量計算はたいしたものだ。同じ段に、れんがの長手面、小口面を交互に積んだ技術(フランス積み)など、多くの人に知ってほしい」
 自身は料理人の道に進んだ。修業を積んで開いた店の屋号は「かわら屋」。製糸場のまちと共に生きた職人の誇りを込めた。
 「製糸業が栄えたころ、大きな料理屋に入っていく芸者の姿を屋根の上から見て、料理屋はいいなあと思った父の勧めがあった」
 つい最近、店に飛び込んできて、駐車場に車を置き製糸場に向かった人がいた。
 「2時間ほど遊んでいっただろうか。『観光客はごみをまき散らすだけ』と敬遠するようではだめ。市内に約250軒ある飲食店の多くが、まちなかの一角に固まっていられるのも、製糸場のおかげだ」

(富岡支局 西岡修)