絹人往来

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一屯会 伝統産業残したい 石田 幸男さん(67) 富士見村石井 掲載日:2007/3/29


収繭量の多さが認められて贈られた表彰状を手にする石田さん
収繭量の多さが認められて贈られた表彰状を手にする石田さん

 養蚕の盛んな富士見村では、年間収繭(しゅうけん)量が一トンを超えると、入会が認められる「富士見村一屯(とん)会」という組織があった。
 「養蚕農家にとって、1トン以上の繭をとることは、大変な名誉。会の中で年間の順位を競うから、あいつには負けられないと思って、励みになった」
 会が発足した1969年は収繭量1トン以上の農家は18軒しかなかったが、年々増加し、10年後には160軒を超えた。このため、養蚕のレベルも向上したという。
 「競争があったから、繭のとれる量は増えた。私は会発足時、年間1200キロで8位だった。80年以降には2年続けて2200キロをとり、3位に上がった。トップは2800キロだった。村一番になりたい、という思いでやってきた。いい繭をたくさんとるには、いい桑が必要。春先に堆肥(たいひ)を入れて、葉肉の厚い桑を目指した」
 競うことばかりではなく、生産者同士の心の通った交流も盛んだった。
 「農家と農家の行き来があったんだ。当時は行政区ごとに幼蚕飼育所があったし、そこで作業する女の人たちも楽しかったと言っていた。毎年、春には蚕の神様である沼田の迦葉山にみんなで旅行に行ったりした」
 1972年、同村は繭増産率が県内1位に輝く。当時、村内には2000を超す養蚕農家があったという。
 「村には桑畑が一面にあった。外から来る人は、桑畑を見て、あれは何だって驚いたもんだよ。春から秋までが蚕で、冬場はホウレンソウ。桑と桑の間にホウレンソウを植えた。この二つが農家の大きな現金収入になっていた」
 現在も養蚕を続けている。村内12軒の養蚕農家でつくる連絡協議会の会長を務めている。
 「今は年2回しか蚕はやらない。繭の量は年間5、600キロぐらいかな。養蚕が好きなんだ。あの手触り、光沢といい、繭になった時の喜びは何とも言えない。富士見の伝統産業を残すため、自分の体が元気なうちは続けたい」

(前橋支局 須藤拓生)