機織り 近所のみんなが競争 小此木春枝さん(85) 伊勢崎市除ケ町 掲載日:2007/11/10
小此木さんが自分でデザインして、織り上げたウールの着物
「機(はたし)の道具はなくなっちゃったけど、今でも糸を見ると機を織りたくなる」。「はた」ではなく、「はたし」と呼ぶ。
機を織らなくなって40年ほどになるが、機を織る自分の姿を今でも思い浮かべることができる。
生まれは境町上武士(現在の伊勢崎市境上武士)。「養蚕農家で、10月から3月までの農閑期に機を織った。農作業が少し暇になると、機屋の人が『織ってください』と回ってきた。家には機が2台あって、私と母親と姉の3人が織った」
農家の女性が機を織るのは当たり前、近所のみんなが織った。
「もう競争でしたよ。『あそこの娘はこれだけ織った』と機屋があおった。夜の食事をしてから2時間は織った。朝も食事をする前の6時から機に上がった。作業が速い『手ばや』と言われました。普通の人は2反織るのに4日ぐらいかかったが、3日で織り上げた」
春や秋のお祭りが近づくと、機織りにさらに熱が入った。
「自分の決められた仕事を超えた分は小遣いとしてくれたから一生懸命でしたよ。いつもの倍ぐらい織ったこともありました」
嫁ぎ先でも戦争が終わると、機を織り始めた。高品質の織物が評判だった。
「横糸と縦糸が、ぴたっと合わないと嫌なんです。打ち込みがいいと、布の織り上がり、横糸の細かさがちょうどいい反物に仕上がる。よその人が織れなくて返品したものも織った。だから、仕事がなかった終戦直後でも忙しかった」
ウールの併用絣(かすり)も機で織った。飛ぶように売れると機屋から言われるほど人気があった。
「仕事の様子を見たいという京都のお客さんを機屋が連れて来たこともあった。バスに乗ってやって来ましたよ」
長女の金井清子さん(60)は「母は眠る間も惜しんで機を織って私たち5人きょうだいを育ててくれた。元気なうちに機織りのすべてを教えてもらいたい」と語る。
清子さんの思いが、殊のほかうれしい。