養蚕青年 研修生の生活を支援 長谷川 和也さん(75) 吉井町小串 掲載日:2006/12/16
研修生のために建てた家の前に立つ長谷川さん
「1970年に群馬会館を借り切って、県蚕桑研究会連合会の創立20周年大会を開いた。会場に入りきれないほど人が集まり、盛大な大会になった。当時は養蚕に力を注ぐ若手の会員が2600人もいた」
同会は、養蚕青年らで組織する団体。農家を継いで養蚕を始めてすぐに入会し、多野藤岡支部長を経て、69年から2年間、会長を務めた。会長として臨んだ20周年大会は、養蚕青年らの活動を大々的にアピールする場になった。
「会長時代に県や県議に掛け合って、会への補助金を20万円から一挙に70万円に増加させた。当時の70万円はかなりの価値があり、いま振り返っても大きなことだったと思う。それだけ養蚕には力があった」
家では養蚕のほか、米麦、町特産のシイタケ栽培も行っていた。
「養蚕はうまく繭が取れれば、こんなに良いことはないが、当時は天候や桑の問題で失敗もした」
そこで養蚕の技術を学ぶため、22歳の時から2年間、前橋市の蚕業試験場で勉強した。
「学んで分かったのは、カイコは飼育環境に敏感だということ。その後、稚蚕共同飼育所ができて振興の基盤になった。この地域は繭の品質がいつも平均より良かったので、組合で農林大臣賞をもらったこともある」
「夏は養蚕、冬はシイタケ」の複合経営を全国でも先駆けて導入。複合経営のリーダー的存在となり、全国から研修生を受け入れた。
「研修生は58年ごろから10年間、若い人を中心に30人以上を受け入れた。近県が多かったが、九州や秋田の青年もいた。最初は母屋で寝かせていたが、64年ごろ、母屋の前に研修生が寝泊まりする家を建て、生活を支援した」
研修は「体で覚える」のが基本。研修生と一緒に養蚕、シイタケ栽培に汗を流して働いた。
「研修生の親が信頼して私のところに送り出したから、それに応えて一生懸命やった。研修生とはその後も連絡を取り合っている。地域で頑張って市議会議員になった人もいる」
かつての養蚕青年たちの交流は、今も続いている。