絹人往来

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技術伝承 中国で理想の品質管理 木村 信行さん(68) 前橋市上小出町 掲載日:2006/09/14


中国の生糸を手に、技術伝承の意義を語る木村さん
中国の生糸を手に、技術伝承の意義を語る木村さん

 「日本の製糸技術は世界のどの国も追随を許さない。先人の努力の結晶の上に成り立った、独自の文化と言っていい。世界のどの地でもいい、受け継いでほしい」
 旧官営富岡製糸場の世界遺産登録をボランティアとして応援する伝道師。第一期生を募集した2年前、すかさず手を挙げた「伝道師番号10番」は、国境を越えた技術の伝承を願ってやまない。
 前橋市で1893(明治26)年に創業した製糸工場の4代目。父親の代に他の中小工場と統合、吉野組製糸所を設立した。戦後、再興され、渋川市で操業する。
   「小さいころから家業を継ぐよう言われ、ためらいもなく飛び込んだ。ただ、自分自身は経営より、現場が好きだった。技術を極め、やるからには日本の第一人者になろうと考えた」
 明治大政経学部を卒業後、東京農工大で製糸を学んだ。1962年に入社、若くして現場責任者を任された。
 「技術には自信があった。学者や研究者と交流を深め、理論を高める。その上で、経験とか五感とか、アナログ的な要素を入れ実践に移す。同じ太さの糸ならうちが一番高い値が付いた。エルメスに生糸を提供したり、新製品も開発した。最後は専務兼工場長だったけど、専務の仕事は朝の六時半から八時まで。それから夕方の五時まで、ずっと工場にいた」
 立ちっぱなしの仕事が負担をかけた。50すぎから腰痛に悩まされ、7年前、61歳で退社。行政書士に転身したが、しばらくして中国の製糸工場の経営者から技術指導の依頼がきた。
 「中国には2000年から3年間、10回以上渡った。輸出品として最低ランクだった品質を最高に引き上げた。先方からは歓迎されたが、自分もうれしかった。日本では採算を考え、できなかった理想の品質管理をすることができた。40年近くこの道で生きた集大成を飾ることができた」
 運命のいたずらか、中国での指導の最後の年となった02年末、吉野組は操業を終えた。
 「寂しかったけど、やればやるほど赤字になっていた。見切りを付けて仕方なかった。これからも、国内では産業としてやっていくには厳しい。だからこそ、世界に目を向けたい」

(前橋支局 阿部和也)