大黒柱 収入の8割、養蚕で 小林 祐次さん(81) 片品村幡谷 掲載日:2008/11/27
「蚕は生活の大黒柱だった」と語る小林さん
「しじ、たけ、ふな、にわ、にわやすみ」―。蚕が繭になるまでに繰り返される休眠の回数を、そう呼んで数えては、成長を見守った。蚕は4度目の休眠「にわやすみ」を過ぎると、繭作りを始める準備に入る。
「この期間は、餌の調整も勘どころ。給桑に気を使ったり、蚕の部屋を大きくしたり、少しも気を抜けない。食欲が旺盛になって、蚕はどんどん大きくなるからね」
江戸時代から続く養蚕農家の長男に生まれ、小学生のころから家業にかかわっていた。
「山から桑を背負って来ては、給桑作業をよくやった。父が桑の高木から枝を切り落とし、上蔟(じょうぞく)の時には、専門の業者が手伝いに来ていたのを覚えている」。18歳から1度、村内の製材工場に勤めたが、終戦後、家業を引き継いだ。
「大麦や小麦、大豆などを畑で生産した。養蚕は春蚕(はるご)と秋蚕(あきご)が中心だったが、収益性が高かったから、当時は年間収入の8割を占めていた。農家にとって、なくてはならない大黒柱だった」
そんな養蚕経営にも不安はついて回った。山村地域の同村では、平野部と比べて気候条件が厳しく、桑園が霜害に遭うことが時々あり、繭の収量にも影響した。
「桑園がだめになり、春蚕が全滅する農家もあった。そういうときには、前橋などで桑を買って来て与えるしかなかった」と当時の窮状を振り返る。
養蚕の神様を祭る沼田市奈良町の蚕養(こがい)神社。当時は春と秋の豊作祈願祭になると、養蚕の安定経営を願う参拝客でにぎわったという。
「父も神社や参道の石段整備などに協力していた。生活と蚕はそれだけ密接にかかわっていた。蚕にかける感謝の気持ちは大きく、蚕には誰も悪口はたたけなかった」
25歳でシゲ子さんと結婚し、娘3人を育て上げた。養蚕から退いておよそ30年がたち、その間、コンニャク栽培、トマト栽培へと、農業経営は転換を余儀なくされたものの、今でも現役で働く。「何よりも妻のおかげ。養蚕から農作業、家事まで、すべてをやってくれた。よく付いてきてくれた」。内助の功に感謝する。