絹人往来

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収繭量 家族一丸でトップの座 飯野俊太郎さん(73) 榛名町上室田 掲載日:2006/09/21


二人三脚で養蚕を行った飼育施設と飯野さん夫妻
二人三脚で養蚕を行った飼育施設と飯野さん夫妻

 「8年目で収繭量トップ」―。1975年1月発行の機関紙「明るい農協はるな」に、こんな見出しが躍った。切り抜いた記事を宝物のようにアルバムに張ったのが、きのうのように思い出される。
 「あのころは頑張ったよ。養蚕は農家にとって大きな収入源だからね。おかげで4人の子供を高校や大学に出すことができたんだ」
 戦後間もないころ、銀行員の父親に「大きくなったら何をやりたいか」と聞かれた。少し考えて「農業」と答えた。それからしばらくして逗子市から榛名町に引っ越した。15歳で脱サラの父親との農業生活がスタートした。
 「大病をした父に代わって、いろいろやったね。コメは食べるだけ。収入として野菜やシイタケ栽培、養豚、養鶏などを手がけた」
 特に採卵のための養鶏に力を注いだ。ピーク時の63年ごろは二千数百羽に上り、結婚後は妻、光子さん(65)の力を借りた。卵は町内のお得意さんで引っ張りだこだった。
 「当時よく言われていた『200万円農家』を夢見て研究してみたが、養鶏だけでは年収200万円はとても無理なのが分かった。そこで、養蚕導入による複合経営を目指そうと考えたんだ」
 近所の農家がやっているのを参考に、見よう見まねで養蚕を始めた。最初は掃き立て量がわずかに15グラム。翌年は90グラムと徐々に増やすことにした。並行して、火山灰でやせた桑畑に鶏糞(けいふん)を投入し、土壌改良を進めた。
 「日本の養蚕技術は世界一だと思う。それに全力を注ごうと決心したんだ。家族だけでは手が足りず、近所の人を雇ってやったもんだ」
 機械化や買い桑、堆肥(たいひ)購入による桑園管理などで年4回の飼育が可能となり、年間800グラムを飼育し、収繭量は2000キロを突破。8年目の74年に榛名地域のトップに躍り出た。
 「5、6年は連続して1位だったよ。でも、繭の値段が下がり、中国から安い生糸が入ってきて採算が取れなくなったので、しばらくしてきっぱりあきらめた」

(はるな支局 清水信治)