広瀬川 白く流れる繭の煮汁 久保木宗一さん(57) 前橋市国領町 掲載日:2006/05/19
「絹の橋」に立ち、製糸工場などについて語る
久保木さん
「子供のころ、実家や岩神町の祖母の家の近くには製糸工場が軒を連ねていた。繭を煮た後の熱湯が工場裏の用水に流れ込むと、白く泡だって帯状に見えた」
小学5、6年ごろの思い出だ。その情景を前橋市が生んだ詩人、萩原朔太郎も目にしていたのではないか。そう思うと「心が躍った。すごい発見だと思った」。感慨深そうに語る。
朔太郎の代表作の一つ「広瀬川」の冒頭部分、「広瀬川白く流れたり…」。この一節を、朔太郎の心象風景ととらえる説が多いが、見方は異なる。五、六年前、広瀬川を毎日見つめているうちにふと昔の記憶と重なった。「排水される繭の煮汁が広瀬川に白く帯状に流れるのを見たのではないか」
持説を裏付ける史実は存在する。「朔太郎が『広瀬川』を書いたころ、広瀬川のほとり、現在の城東町市営立体駐車場の辺りには県内一大きな製糸工場、交水社が存在し、千人の女性従業員を雇って稼働していた」
1800年代から1900年代初期、前橋市は横浜市と肩を並べる生糸(いと)の町だった。「前橋シルク」は欧米に輸出され、英国では「MAEBASHI」という名の生糸が取引されていた。
「前橋の初代市長、下村善太郎は生糸商人だった。日本初の機械製糸工場は前橋にあった。昔の前橋は繭によって支えられていたんだ」。強く語った後、肩を落としながら加えた。
「つい最近までは製糸工場のシンボルであるれんが造りの煙突もあちこちに見えていた。でも今はない」
前橋市の“財産”は、語り継がれるものへと姿を変えた。
広瀬川に架かる橋の中に、交水社の従業員が回り道せずに対岸に渡れるように造った橋がある。1996年、それまで無名だった橋は改修され、「絹の橋」と名付けられた。
「絹の橋」に立ち、姿を変えた交水社の跡地を見つめながらつぶやいた。「繭を煮ると何とも言えない独特のにおいが工場からしてきてね。臭かったが、今思うと懐かしい」