祝い帯 「七五三」の喜び支える 西場 一郎さん(81) 桐生市広沢町 掲載日:2007/1/14
当時の主力商品だった祝い帯を手に、思い出を語る西場さん
親の代から帯屋を営んでいた。戦争中、機織りに使う道具がなくなり、一時は農業に転換したが、24歳の時に一人で帯屋を再建した。
「戦後で物資がない時代でも、ここは織物のまち桐生。技術を持つ人材は豊富だったから、自然に機屋になろうと思った」
他の機屋から仕事を受ける「賃機(ちんばた)」から始め、独立して「西一(にしいち)織物」を立ち上げた。当時の会社を支えた主力商品は、七五三の祝い帯。7歳用の尺三帯と尺五帯、「赤帯」と言われる3歳用の結び帯の生地のほか、1本4、5万円の高級品だった「ジュニア祝い帯」を扱った。
「七五三の帯は、桐生産地の独壇場だった。京都は大人の祝い帯の方が売れていたから、手を出さなかった。子供用とはいえ正絹物だから、他の地区では高価すぎて作れなかったみたい。その傾向が残って、桐生には今でも七五三の帯を扱う会社が多い」
1970年代に帯の生産は全盛期を迎えた。問屋からの問い合わせは絶えず、生産が需要に追いつかない状況が続いた。
「もっとたくさん、もっと早く納品してくれと催促された。1日20本を仕上げても、10軒の問屋に卸すから、2本ずつしか渡せない。いくら織っても売れた。今思うと恵まれた環境だった」
健やかな成長を願う祝い帯は、華やかな色や柄に加えて、子供に似合う「かわいらしさ」が求められた。七五三参りのシーズンになると神社や寺に出向いて、流行の視察や市場調査を毎年欠かさず行った。
「和装は流行があるから、そうしないと自分が時代の流れに乗り遅れてしまう。自社の帯を締めた子供が、次々とお参りに来るのを見るのも楽しみだった」
1985年ごろになると、七五三の市場にも、洋服や貸衣装が着物に代わって台頭してきた。帯の生産も落ち込み、数年後には仕事を受けるのをやめた。
「戦後の何もない時代に、祝い帯が私を生かしてくれた。帯屋として、子供が初めて着物を着る七五三の喜びを少しは支えてやれたかな」