絹人往来

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道具 刻まれた記憶に愛着 鳥山 賢二さん(77) 渋川市赤城町見立 掲載日:2006/06/01



給桑台の上に藁まぶしを広げ、当時の作業を語る鳥山さん

 「蚕棚(かいこだな)」「藁(わら)まぶし」「給桑(きゅうそうだい)」「ツメ」―。赤城山西ろくの傾斜地の桑畑の中で、地域で一軒だけとなった養蚕農家の鳥山賢二さん(77)。今は使わなくなった愛着のある道具を大切に保管し、一部は再活用している。
 蚕棚は、現在はコンニャク栽培に転用しているが、主に蚕を育てる場所として使った。一つの棚は十段で、その中に畳一畳ほどの大きさの竹で編んだかごを収納した。竹かごには蚕座紙(さんざし)を敷き、その上で蚕を飼った。「何しろ『おかいこ様』というぐらいだから、居宅の2階にも置き、棚がいくつあったかなんて分からないほどだった。蚕が大きくなり、桑を盛んに食べる時期は『ざーざー』と大雨が降っているような音がした」
 給桑台は、この蚕棚の前に置き、棚から引き出した竹かごを載せて蚕に桑を与える時に使った。「朝、昼、晩と1日3回、1回の作業に1時間半かかった。早朝から桑切りに出かけ、桑を与えると、また桑採りへ。終日作業を繰り返し、自分たちの食事よりも蚕に桑を与えるほうが大切なことだった」
 桑を摘む作業は子供も手伝った。賢二さんと同じ養蚕農家に生まれた妻のみはさん(77)は、「今は学校から帰ってくると、『宿題やれ』って言われるが、私たちが子供のころは勉強より、おかいこの手伝いをするのが当たり前だった」と振り返る。
 桑の葉を、葉の根元近くの部分で刈り取るのに鉄製のツメを両手の人さし指にはめて使った。「小さいころは指が細いので、指に布を巻いてからツメを付け、作業中に何度となく指や手を切った」
 だから養蚕農家の大変さを十分承知したうえで、糸を引いたり、機織りの技術も身につけ賢二さんに嫁いだ。今は使わなくなったが、結婚後しばらくの間は、蚕が糸をはいて繭を作る時に使う藁まぶしという道具が必要だったので、冬場に藁を編んだ思い出もある。
 賢二さんは「愛着のある道具は時代とともに変わったが、上質な糸のとれる繭を作りたいという思いは変わらない。妻と二人三脚で元気なうちは、おかいこを続ける」と意気盛んだ。

(渋川支局 斎藤雅則)