絹人往来

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河川敷 水はけよく、桑が生育 大木 良作さん(81) 館林市下早川田町 掲載日:2007/1/13


養蚕の道具が残る農機具小屋に立つ大木さん
養蚕の道具が残る農機具小屋に立つ大木さん

 小学校高等科を経て農業青年の研修所で一年学んだ後、16歳で養蚕農家の後継者として就農。以後、40年間ほど養蚕に従事した。
 「下早川田、上早川田地区は、渡良瀬川の河川敷に畑を持っている農家が多かった。大水がたびたび出る地域で、普通作物は水につかるとだめになってしまうため桑を植えた。だから、この地域は館林でも有数の養蚕地帯だった」
 渡良瀬川沿いの土地は、砂地のため水はけがよく、桑の生育にも適していたという。
 「うちは自分の親から養蚕を始めたので、河川敷にはあまり畑を持っていなくて、渡良瀬川左岸側の雲竜寺周辺に40アール強の桑畑があった。川向こうも下早川田の土地なんだよ」
 現在も渡良瀬川で区切られた“飛び地”として、渡良瀬大橋を渡った同川左岸に畑を持つ。
 「橋を渡って桑を取りに行った。最初は木製の橋で、大水が出ると、橋げたをはずしてしまった。鉄製の橋ができてからも、40代のころに耕運機が登場するまで、馬車を引いて桑を取りに行ったんだよ。耕運機を10年ほど使った後、トラックが出てきた」
 春蚕と晩秋蚕は卵60―70グラムほど、夏蚕は卵20グラムほどの蚕を飼った。夏は桑の生育がよくないため、飼わないこともあったという。
 「春や秋は繭が平均8貫目くらい取れた。昔は蚕1貫目(約3.75キロ)で米1俵と同じくらいの価値があった。このへんの農家は米麦と養蚕の組み合わせが多く、米麦は1年に1度しか取れないが、蚕は年に2、3回取れたので、大きな収入源だった」
 上早川田と下早川田は高低差があって、下早川田の河川敷は大水が出た。「秋の台風の時期は泥水のため、大水が出ると桑が真っ白くなってしまい、晩秋蚕にくれられなくなったこともあった」という。
 下早川田地区は県道を挟んで東西に養蚕組合があり、東組合の最後の組合長をしていた。そのため、地域では最も遅くまで養蚕に従事した。農機具小屋の梁(はり)の上に、竹かごや飼育棚などの養蚕道具が今も残る。

(館林支局 紋谷貴史)