絹人往来

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蚕室 4代の歴史、家守る 原 武一郎さん(73) 玉村町下之宮 掲載日:2006/07/29


今も蚕室に保管している道具を前に、養蚕の思い出を語る原さん
今も蚕室に保管している道具を前に、養蚕の思い出を語る原さん

 昭和14年まで蚕種業を営んでいた原家。大正10年ごろに埼玉県から移築したという蚕室は、収量も多く、3基の大きな天窓(てんそう)を持つ歴史ある建物だ。4代目、原武一郎さん(73)の幼少時代は、蚕種とともにあった。
 「家には常時4、5人の外交員がいた。手伝いに来てくれていた従業員もいて、とてもにぎやかだった。注文を取りに行った長野や埼玉での土産話や従業員の人が買ってきてくれるお土産がとても楽しみだった」
 もともとは玉村町近郊や利根川を渡った前橋南部を販売先とする養蚕農家。敷地のすぐ北を利根川が流れ、利根の涼風が桑につくキョウソバエの発生を防ぐ好適地だった。母屋の裏手にある蔵の脇には、蚕種を保存した冷蔵庫の跡が今も残る。
 「明治時代後半、2代目の祖父が稼業を継いでから、事業は県外にも広がった。中国で修業を積んだ祖父は、『養蚕を始めたい』という人の見習いも次々と受け入れた。養蚕の“宣教師”的存在で、最盛期だった」
 父の代で蚕種業は終わり、養蚕業だけになった。父の手伝い程度だった仕事も、昭和30年ごろからは妻と二人三脚で行い、約20年間、原家の養蚕を守った。
 「朝早くから桑切りに出掛け、雨が降っても休まなかった。すべて手作業にこだわった。大変だったが、自分の手で蚕の感触を確かめないと気が済まなかった」
 1、2階に欄間を入れ、春蚕には暖気を、夏蚕には涼風を十分に伝え続けた蚕室。その中には、まぶしやかご、網など当時の道具が今も大切に保管されている。10年ほど前、老朽化のため扉や外壁などを修理した。
 「形を変えるというのは、やはり寂しい。『歴史あるものを守れ』とよく言われるが、保存する側にも苦悩がある。ただ、町史に残り、今も見学に来る人がいることで、当時の原家の偉大さを感じる」
 建物は自身の心に残る蚕の思い出としっかり結び付いている。
 「これからも有形無形の“歴史”を守り続けていきたい。それが原家4代目の“仕事”だよ」

(伊勢崎支局 堀口純)