絹人往来

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養蚕日誌 35年分、情報びっしり 星野 芳三さん(82) みどり市大間々町桐原 掲載日:2006/08/10


台地一面が緑の桑園だったころの畑に立つ星野さん
台地一面が緑の桑園だったころの畑に立つ星野さん

 「58.8キロをつくり袋に入れた。60キロはとれなかった。10時半に業者が取りに来た。片付けきれない」。星野さんが養蚕をやめた2003年6月15日の養蚕日誌だ。
 養蚕がようやく軌道に乗り、ゆとりができた1968年から書き始めた。作業状況を詳細に書き留め、びっしり情報が詰まった日誌もこの日で終わった。「天候異変があったときには、よく近所の人も見に来て参考にしたものです」と手あかで汚れた日誌を見せてくれた。
 星野さんの廃業で、大間々町の西部・瀬戸ケ原から養蚕農家がなくなった。「翌年の大雪と強風でハウスが押しつぶされたことで未練はなくなった」と振り返る。「お蚕さま」として、半世紀にわたり育て、親子4人の生活を支えてくれただけに、つぶれたハウスから蚕具を取り出し、燃やした時は涙が自然とあふれた。
 終戦後の47年、同地区に32戸が開拓の鍬(くわ)を入れた。「一面の雑木林だった。重機のない時代、兄弟たちの力を借りて根を掘り返して畑にした。一冬かけて3反歩を開墾するのが精いっぱいだった」と語る。
 丘陵地のため、強風にあおられ2軒がつぶされた。星野さんは陸稲を栽培、空っ風にあおられ苦労しながらも12俵とれた。収入の安定を図るため、境界に植えた桑を使って養蚕を始めた。奥さんの実家のアドバイスもあり順調に生育。「半箱ぐらいだったが、7千円にもなった」ことで陸稲から転換した。
 よくゆけば この生活費の 二カ月は とりたいものと 初秋蚕あぐ
 そのころ詠んだ歌だ。
 65年から10年くらいが最盛期。32戸のうち27戸が養蚕をして、手振山の中腹まで桑園(そうえん)が続いていた。
 「春、夏、初秋、晩秋、晩々秋と年5回やったこともあった。繁忙期は子供たちも学校から帰宅して手伝っただけでは足らず、人を頼んできてもらったりで家中が大騒ぎだった。疲れで足がふらつくこともあった」
 値が上がり、1キロ1700―1800円になった。
 「家族挙げてのきつい労働の割には収入が少なかった。それでも蚕をやればまとまった現金が入るのが農家にとって大きな魅力だった」

(わたらせ支局 本田定利)