紬の着物 自ら織り上げた宝物 中島 はつさん(81) 東吾妻町岩下 掲載日:2006/11/16
若いころ織り上げたお気に入りの「紬の着物」を手にする中島さん
東吾妻町三島で農家の長女に生まれた。学校を終えて25歳で嫁ぐまで、実家で農業を手伝った。20歳になり、嫁入りもそう遠くないころ、一着の「紬(つむぎ)の着物」に出合った。
「娘たちが裁縫学校でお針を習うのが当たり前の時代。そんな時、桐生かどこかの機織りの本場から疎開してきた人がいて、機織りの指導をしていた。その場で見せてもらった緑色の紬の着物に目を奪われた」
戦後間もない時代の農村で反物を買うという習慣は無かった。機織りの指導を受けて、自ら織るしかなかった。それを話すと、父親は農家によくあった「平織り」しかできない機織り機ではなく、比較的他種類の織物ができる「高機(たかはた)」と呼ばれていた機織り機を作ってくれた。
「とにかく紬の着物が欲しくてたまらなかった。機織りの講習を受け、農閑期には毎日のように機に向かった」
養蚕で出荷できなかった規格外の繭から糸をとり、よりあげてから、染色。その糸で反物を織る。糸とりから、1反を仕上げるまで毎日機織り機に向かってほぼ1カ月かかった。
「絣(かすり)模様を出したいときは、柄に合わせて絞り染めをすることもあった。最初の1反は娘らしく紅色に染めた。いまでも、その時の思い出に大切に持ってるよ。世界でたった一つの着物だものね」
紬の織り方を学んでから結婚するまでの五年間に仕上げた着物は羽織を含めて7着。あちこちの機織り機を見て回り、苦労して機を手作りしてくれた父親の思い出にもつながる「かけがいのない宝物」だ。
「染色や機織りは細心の注意を払わなければとてもできない。若い時だからできたこと。1反仕上げた時の満足感は言葉では表せない。もちろん普段着になんかしなかった。よそ行きに大切に着たよ。嫁入り道具のひとつという思いもあったしね」
繭を生産する農家の娘だったからこそ、作り上げられた着物だ、と今も思っている。
「繭は大好き。今も蚕をしている友達に繭を分けてもらい、染色してブローチや人形を作っているんだよ」