絹人往来

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母屋の梁 針金巻いて繭つるす 林 敏雄さん(64) 昭和村生越 掲載日:2006/09/22


自宅母屋の黒光りするケヤキの梁を見つめる林さん
自宅母屋の黒光りするケヤキの梁を見つめる林さん

 昭和村有数の養蚕農家だった。
 「祖父の代には1年で4、5回繭をとった。毎年新潟から出稼ぎの若者30人が来て、泊まり込みで桑取りや蚕の世話をしていた。忙しいときは一階の居間でも蚕を飼ったので、家族の寝場所もないほどだった」
 かつて70戸近い養蚕農家があった同村生越地区。自宅2階を蚕室としていた農家が多かったため、同地区は今も2階建てや3階建ての住宅が多い。築150年という自宅は、かつて蚕室として活用していた2階と3階の天井には黒光りするケヤキの太い梁はりが伸びている。梁の所々にさびたくぎが顔を出している。
 「20歳のころ、繭を取る回転蔟まぶしをつるすために打ち付けた。父は梁に針金を巻いてつるしていたが、それでは手間がかかるのでくぎにした。回転蔟を2つ重ねてつるすと、1日ほどで蚕が上ってきた。真下の床が蚕の尿でびしょびしょになるのでビニールシートを必ず敷いた」
 梁に白いチョークで書かれた「25マゲル」の文字が浮かび上がる。「25マゲル」は針金を25センチのところで曲げて巻き付けるという意味だ。
 「父が梁に針金を巻くために太さを図って、記録しておいたようだ。自分の代になっても蚕は親が中心になってやってくれた。作業の手順がすべて体に染み付いていたのでしょう」
 ピーク時には年間1.5トンの収繭量を誇った。しかし、次第に生糸の値段が安くなったことから、30年前にコンニャク農家に転身した。
 「高校時代も朝、蚕にクワを与えてから学校に行った。私が家を継いだ時も養蚕が収入の7割程度あり、残りがコンニャクや野菜だった。農家は自分で5代目。あのころ養蚕は一生の仕事だと思っていた」
 蚕室は一時コンニャク芋の貯蔵庫になった。昨年コンニャク栽培も辞めたため、現在母屋の2、3階は使っていない。
 「養蚕器具はほとんど処分したが、捨てきれない竹かごや回転蔟は今もある。昔は古い家がいやで改装もしたが、この年になってようやく家の中が落ち着くようになった。うちの先祖には本当に感謝している」

(沼田支局 金子一男)