絹人往来

絹人往来

養蚕技術 母の勧めで知識習得 永井 なか子さん(78) 沼田市下久屋町 掲載日:2008/04/24


幼い時に宏文館製糸場の前で撮影した写真を手に思いを語る松田さん
幼い時に宏文館製糸場の前で
撮影した写真を手に思いを語る
松田さん

 1873(明治6)年、曾祖父の丸茂文右衛門が長野県茅野市に製糸場を創業。1931年には父、弥太郎が藤岡市岡之郷(旧神流村)に移り、生糸の製造、販売を手掛けた「宏文館(こうぶんかん)製糸場」を創業した。戦争の激化に伴い、出荷が困難となった44年まで稼働し、地域の蚕業を支えた。
 「各地から100人ほどの従業員が働きに来て活気があった。2階には寄宿舎があり、寝泊まりする従業員もいた」
 同製糸場では、地元の養蚕農家などと取引して繭を集め、煮た繭から器械で糸を取って生糸にし、袋に詰めて主に横浜に出荷していた。従業員は紺の服や製糸場の名前が入った法被を着て作業に当たっていた。
 5人兄弟の末っ子で、製糸場が稼働していた時期は幼かったが、思い出は多い。
 「繭の選別台などいろいろな道具があった『繭広場』と呼ばれるところがあり、体育館ほど広く、友達と自転車に乗って遊んだりした。悪いことをすると繭蔵に入れられることもあった」
 「子供の時に母に教えられ、手作業で玉繭から真綿を取ることもした」。母は、長野県の上田蚕糸専門学校(現信州大学繊維学部)を卒業し、製糸の技術指導で全国を飛び回った。
 「製糸場がうまくいっていたのも母のおかげだと思う。技術指導だけでなく、高く生糸が売れるように絹の相場を記録したりと、経理も母が行っていた」
 両親が営んでいた製糸場のことを地域の人たちに少しでも多く知ってもらおうと、繭ゆで釜や生糸しばり機、生糸の太さを測る検尺器など製糸にかかわる多くの道具を藤岡市に寄贈した。このところ毎年、藤岡歴史館で展示会が開かれている。
 「地域の人たちにお世話になりながら両親が苦労して経営し、地域の製糸業を盛んにしていたことを、使わなくなった道具を寄贈することで社会に還元したかった」
 世界遺産登録運動が盛り上がりをみせ、製糸業や養蚕業に再びスポットが当てられている状況を喜んで見守っている。
 「身を粉にしてみんなが協力してやってきたことを多くの人に知ってもらいたい」

(藤岡支局 林哲也)