絹人往来

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技師 「人工飼料」普及に奔走 田中 孝平さん(83) 安中市原市 掲載日:2008/07/12


センター設立の思い出を語る田中さん
センター設立の思い出を語る
田中さん

 戦後間もない1946年、県蚕業試験場に技師として入った。「昭和天皇が本県を訪れ、蚕糸関係者を激励された時期。蚕糸研究に対する期待も大きく、効率の良い飼育法の研究を始めた」
 曾祖父の代から続く種屋に生まれた。当時、母蛾(ぼが)が感染すると子に大きな被害をもたらす「微粒子病」という蚕病が流行。もし病気が見つかると蚕はすべて焼却処分となり、種屋にとって生活基盤を揺るがす恐ろしい病気だった。「父は伊豆七島まで、原種を買いに行ったこともあった。子供心に大変だなと思った」
 蚕糸学校(現安中総合学園高)、東京繊維専門学校(現東京農工大)養蚕学科を卒業。蚕業試験場を振り出しに、県内の蚕業事務所などで飼育技術や流通の指導に尽力した。在職37年間、ひたすらに養蚕業の発展を願ってきた。
 県農政部蚕糸課長時代の80年には全国に先駆けて前橋市に「稚蚕人工飼料センター」を設立。県産の人工飼料「くわのはな」の大量生産が可能となり、養蚕農家の安定経営に大きく寄与した。
 「蚕作安定」を目指し、桑の葉とさまざまな栄養素を混ぜた人工飼料の研究は60年代から始められ、すでに実用レベルにあったが、大量生産する設備がなかった。「国有だった建設用地払い下げの交渉で何度も大蔵省に通った。養蚕農家減少、高齢化による質の低下をカバーするため、人工飼料の普及は急務だった」
 「蚕はデリケートな生き物。小さい時から人工飼料を与えると病気になりにくくなる」。通常、毛蚕(けご)の時から桑を与え成長させるが、蚕の成長に合った良い桑を食べさせないと途中で死ぬケースがたびたびあった。
 「天候、肥料のやり方で桑の生育も違う。人工飼料ができてから蚕病も減った。養蚕業にとって革新的な出来事だった」
 センター稼働後も、飼料のさらなる普及や長期保存技術の確立、品質チェック方法の開発などに関して提言を続け、養蚕業の発展を伝え続けた。
 「種屋に生まれ、幼いころから多くの苦労を見てきた。何としても養蚕農家の経営を安定させるのが使命と思い、技師の道に進んだ。全力投球できたと思っている」

(安中支局 菅原龍彦)