絹人往来

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角帯 紋を多用して差別化 島田 耕吉さん(74) 桐生市東久方町 掲載日:2007/2/22


「ふくみ会」で織った角帯を手に語る島田さん
「ふくみ会」で織った角帯を手に語る島田さん

 祖父の代から営む「島福織物」の3代目。着尺やコート地などの織物を手掛けていた会社は、1970年ごろから採算の高い帯を扱うようになった。
 「帯の方が着尺より短く、織りも簡単だった。当時も男性で着物を着る人は女性ほど多くなかったから、商売の戦略でライバルの少ない男の帯を作ればもうかるのではと発想した」
 市内の帯屋8軒で「ふくみ会」を結成し、共同で男の帯の販売を始めた。主力商品は、男性が着物を着るときに締める「角帯(かくおび)」。父と自分が理事長を務め、夏は男の浴衣帯、秋は角帯を売り出した。
 「普通の機屋は平均4、5台の織機があるだけ。ふくみ会は合計で約100台の織機を持っていた。1台が平均5本を織るから、1日の総数は500本になる。ピーク時は年間で7、8万本を売り上げた。当時、国内ではふくみ会の織った角帯が最もポピュラーだったと思う」
 「ふくみ会」の角帯が売れ行きを伸ばした理由は、手ごろな価格設定と斬新なデザインにあった。1本5000円で、正絹物でも1本1万円。高級な博多の角帯に対抗して、一般の消費者も求めやすい値段にした。また、地味なしま柄が一般的だった角帯に、紋を多用した個性的なデザインを取り入れ差別化を図った。
 「帯のネーミングも、榛名や赤城、穂高など山の名を冠して男らしさを強調した。会員同士で競い合い、客に喜ばれる商品のアイデアを出し合った。ネクタイの柄を研究して帯に応用したり、自分も日ごろから売れるデザインを考えていた」
 年号が「昭和」から「平成」になると、織物産業の衰退に合わせて「ふくみ会」も解散した。経営の厳しさから会員だった帯屋も次々に商売をやめて、島福織物も20年前に帯の注文を受けなくなった。
 「玄関に織機の置き物を飾り、当時の角帯も着なくなっても大事に取ってある。ノスタルジーかもしれないけれど、正月には自社や桐生の機屋で織った角帯を締める。今でも着物を着ているのは、かつては機屋だったことへの誇りかな」

(桐生支局 高野早紀)