絹人往来

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共同飼育 地域の団結力強く 福地 徳雄さん(93) 邑楽町石打 掲載日:2007/4/27


養蚕をしていた当時の写真を手にする福地さん
養蚕をしていた当時の写真を手にする福地さん ん

 「高島地区のほとんどの養蚕農家は片倉製糸や神戸製糸から蚕種を買っていた。でも、うちは縁があって富岡から買っていたんだ。黄色い繭で、この辺じゃ2軒しか育てていなかった。富岡製糸場のレンガの建物が目に焼きついている。立派な建物だった」
 高島地区で共同飼育をするようになり、蚕種も共同で購入し、富岡通いは終わった。共同飼育を始めたことで、地域の団結力が強まった。同じ場所で同じ目的をもって蚕を育てることで、自然と会話も弾み、近所付き合いも親密になった。
 「どんな種類の桑を蚕にあげるといいかという話で、近所の人と盛り上がった。みんなでいろいろ工夫したもんさ」
 3齢目までを共同飼育することで、それまでに比べ、手間もかからなくなった。高島地区では春蚕、夏蚕、晩秋蚕の年3回飼育していた。
 「田んぼが1町2反、桑畑は4反だったけど、現金収入の約3分の1を養蚕で稼いだよ。現金を得るためにはやっぱり蚕がよかったね。繭の単価がいい時は、高島地区もほとんど桑畑だったんだ」
 桑が足りない時は館林の渡良瀬遊水地周辺や太田市金井まで買いに行った。多く購入しすぎて、余ってしまったこともあったという。
 主力産業の養蚕は小学生の教科書にも載っていた。戦後復興の担い手であり、それだけに注目を集めていた。
 「小学生がクラスで見学に来たよ、蚕を飼っていない家の子は珍しがってね。蚕の成長過程を教えてあげたんだ」
 しかし、繭の単価が下がり、採算が合わなくなると共同飼育は中止となった。それでも、5年間は養蚕を続けていた。
 「桑畑はあるし、すぐにはやめる気にならなかったね。だけど、約20年前、後継者がいないのと手間がかかるので、やめざるをえなくなったよ」
 畑から桑を撤去する時に、1株だけ運び、庭に植えた。いま、高さ2メートルに伸びた桑の木から新芽が出ている。
 「桑にも愛着がわいてね。あれを見ると思い出すね、にぎやかだったころを。蚕はかわいかったな」

(大泉支局 宮村恵介)