絹人往来

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着幼児教育 お蚕さまと共に成長 浦野 みち子さん(76) 富岡市一ノ宮 掲載日:2008/03/06


繭で作ったモザイク画を園児と掲げる浦野さん
繭で作ったモザイク画を園児と掲げる浦野さん

 「製糸場を持つ富岡の地の子供たちに、糸をはいて繭を作る蚕の成長の姿を理解させてあげ、布や着物がどうやってできるのか教えたい」
 園長を務める富岡市内の保育園で、園児と一緒に春蚕(はるご)の飼育に取り組んできた。養蚕農家の協力を得て昨年育てたのは、上蔟(じょうぞく)前の5齢の蚕。脱皮の様子が分かる4眠前から育てた年もある。
 飼育を始めたのは10年ほど前で、当時は保育園の前身となる幼児園を経営していた。最初は着付け指導者の紹介で県から蚕を譲ってもらい、保護者の協力で周り桑(あぜ桑)を与えた。
 「最初は怖がっている子供も、顔をみて『かわいい』と触れるようになる。音を立てて桑を食べ、休み、脱皮してまた元気になる。繭を作る前には食べ方が減り、頭を振り、体がピンク色に変わってくる。変化を実際に見て、子供なりに感じ取るものがあるようだ」
 旧幼児園舎の1室で育てる蚕を、併設の子育て支援センターに通う母子に見せると「お母さんの方が怖がる」と笑う。
 できた繭は電子レンジで乾燥し、卒園間近となる年明けまで保管。年長児が動物の繭クラフト、その母親たちが卒園式用のコサージュを作る。夏には浴衣の着付け教室に保護者、園児の希望者や保育士と一緒に参加。園や地域の敬老会では、子供が1人で着る様子を「着付け舞」として演じる。園の遠足で県立日本絹の里(高崎市)を見学する年もある。
 養蚕農家に育ち、父は養蚕教師を務めた。上蔟も手伝い、養蚕は身近だった。「新築した自宅が山崩れに遭った時、掘り出した繭の缶が生活の糧になったと聞いた」
 1964年度に幼児園を開設して間もなく、茶道の勉強を始め、着付けを習った。仕事後は好きな和服で過ごす。生け花の仲間と一緒に天蚕の造形を作った。野蚕(やさん)の1種で、濃い緑色の繭を結ぶウスタビガにもひかれ、研究会に入った。いくつもある次の夢の1つは「子供たちと真綿を作り、織物や染め物に挑戦すること」という。
 「お蚕さまと大事にされてきた繭は、人の糧で、天道のなせる業。保育の内容に関連づけ、日本の大事な宝として、次の時代に伝えたい」

(富岡支局 西岡修)