絹人往来

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人工飼料 養蚕を省力、安定化 萩原 清さん(78) 前橋市関根町 掲載日:2007/07/14


現在ケアセンターとなっている建物の前で、当時の思い出について語る萩原さん
現在ケアセンターとなっている建物の前で、当時の思い出について語る萩原さん

 「県の稚蚕人工飼料センターが完成した時には、ほっとした。人工飼料は必ず、養蚕農家の仕事を楽にしてくれるものだと信じていた」
 1981年4月、前橋市関根町に稚蚕人工飼料センターが誕生した。同センターで生産する人工飼料を活用するため、南橘農協稚蚕人工飼料飼育所を3年後に設立し、飼育主任を務めた。
 養蚕農家の1人っ子として生まれ、家業を継いでからは1年を通して養蚕の仕事に追われた。結婚して3人の娘に恵まれたが、一緒に遊ぶ暇もないほど忙しかった。
 「春、夏、初秋、晩秋蚕と出荷し、寝床もお蚕でいっぱいになるぐらいの農家に生まれ育った。父親は1歳の時に病気で亡くなり、母親が女手一つで育ててくれた」
 家業の養蚕に取り組む傍ら、同飼育所で飼育主任となり、安定した蚕の生産に励んだ。
 「人工飼料を使うと、桑の葉で育てるのに比べ、病気で死んでしまう蚕の数が激減した。それまで苦労してきた経験を踏まえ、養蚕が省力化、安定化することが一番の関心事だった」
 同飼育所では作業員全員が白衣を着用、口にはマスクを付けて無菌状態で飼育した。3齢まで成長すると、周囲の養蚕農家に配蚕した。
 「人工飼料のピークは1988年ごろまでだった。それからは中国から大量に安く生糸が輸入され、とても太刀打ちできなくなってしまった」
 99年に役目を終えた同飼育所の建物は現在、お年寄りのデイサービスや訪問介護を行うケアセンターとして再利用されている。
 自らも養蚕から引退したが、ケアセンターの運営に携わる今でも、蚕を相手にしていた当時を思い出す。
 「(建物は)屋根も骨組みも飼育所時代のままにしてあるんだよ。変えたのは内装だけ。飼育所をすっかり壊してしまうことなんてできなかった」
 建物が存在するかぎり、蚕業への思いはいつまでも心の中に残っている。
 「だって、またいつか養蚕の時代が来るかもしれないじゃないか。そのときは、また飼育所に戻すかもしれないな」

(前橋支局 粕川悠介)