絹人往来

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ガイド 方言交え、価値伝える 安原 義治さん(79) 六合村赤岩 掲載日:2007/4/3


重伝建の価値を伝えるボランティアガイドに取り組む安原さん。後方は蚕の稚蚕飼育をした自宅
重伝建の価値を伝えるボランティアガイドに取り組む安原さん。後方は蚕の稚蚕飼育をした自宅

 「父親(義雄)が高山社蚕業学校を1930年に卒業し、六合村に新しい養蚕技術を持ち帰った。物心ついたころから、蚕に囲まれて育った」
 父親は1899年生まれ。祖父が27歳で他界したため、小学校を終えると、すぐに高山社で学び、88歳で亡くなるまで、養蚕同業組合技手など養蚕一筋の人生を送ったという。
 「自宅の2階の一部を木枠で囲み、それをふすまのように紙で覆った。木炭で内部の温度や湿度を保ちながら、掃き立てから三齢ぐらいまでの稚蚕飼育をした。春蚕、夏蚕、秋蚕、晩晩秋の4回手がけたと記憶している」
 先進農家として、稚蚕を育て、村内の養蚕農家に配布する役割を担っていた。その後、共同稚蚕飼育所が一般に普及するまで、それは続いた。
 「そんな作業をする傍らで普通の養蚕も続けていたから、それは忙しくて大変だった。小学生になったころには、桑畑まで桑の葉採りに行かされた」
 養蚕のシーズンになると、早朝6時に家を出て、自宅から1キロ以上離れた桑畑に向かうのが日課だった。
 「背負子(しよいこ)と呼ばれていた荷物を背負う時に使う道具に、桑の葉の付いた枝を直径50センチほどの束にして2束くくりつけて山道を駆け降りた」
 午前8時の登校時間に間に合わせなければならなかったから、「大慌てで学校に駆け込む」ことも少なくなかった。浅間山が噴火して降灰があれば「さらに桑の葉を洗い、乾燥させる作業が加わった」と苦労話は尽きない。
 「重要伝統的建造物群の価値を正しく伝えよう」と昨年8月のボランティアガイド養成講座に参加、昨秋から始まった本格的なガイドで中心的な役割を担っている。
 「健康増進かたがた一生懸命やらせてもらっている。数人のグループから40人前後の団体まで幅広い案内を引き受けている」
 将来は、赤岩地区を全国に知ってもらうのが夢。方言や民話を交えたりしてガイドの仕方にも工夫を重ねる。
 「若い人が『蚕は口から糸を吐くんですね』なんて蚕の知識を広げてくれるのがうれしい」

(中之条支局 湯浅博)