絹人往来

絹人往来

組合作り年1トン生産 森泉宏昭さん(72) 安中市鷺宮 掲載日:2008/09/20


かつて使用した昇降機の前に立つ森泉さん夫婦
かつて使用した昇降機の前に立つ
森泉さん夫婦

 「若いころは夜遅く帰宅した後でも必ず、蚕の面倒をみていた。(蚕は)手をかけるほど素晴らしいものが出来る。本当に好きで、毎日が楽しかった」
 代々続く農家に生まれた。安中高(現安中総合学園高)を卒業後、家業を継いだ。
 当時、地元農家の大半は養蚕を主力にしていた。牛や豚などの家畜も飼育していたが、「養蚕は結果がすぐ出るし、一度失敗しても挽回(ばんかい)できる」と、1960年に節子さん(72)と結婚してからは本格的に養蚕に切り替えた。
 「小、中学校には農繁休暇があって、子供たちはみな小さいころから桑畑の草取りや桑の葉の収穫を手伝っていた」
 自ら発起人となり、年間1トン以上の繭を取る地元養蚕農家の組合「1トン会」を作った。
 「技術的なことを互いに話し合うだけでなく、農閑期には仲間同士で旅行をしたりいろいろと楽しかった」
 70年代後半から80年代前半ごろは、ほぼ毎年1トン以上を生産したという。
 「1番忙しかった時で春2回、夏2回、初秋、晩秋、晩々秋の年7回。春蚕(はるご)だけで1トン以上取ったこともあった。夜中に繭かき(=収繭)をしているそばから、横で子供たちが回転蔟(まぶし)を組んでいたりした」
 養蚕に長年携わっていた中でも人工飼料の登場は画期的だった。「蚕が小さいころは餌の桑の葉にとても気を使うし、1日に3回は食べさせないといけない。人工飼料なら三日に2回ですむ」。桑が霜でやられた時はトラックで高崎や前橋まで桑を買いに何往復もした経験もある。
 繭の価格が下がるなど時代の流れには逆らえず、10年前に養蚕から離れた。仲間たちも、大規模な養蚕農家ほど早くやめていった。今は年間約50種類、四季折々の野菜を作り市場に毎朝出荷している。
 「掃き立てから育てれば自然と愛情もわく。だから良い蚕、繭ができる。するとお金にならないから(養蚕を)やめたけれど、今でもやりたくて仕方ない」
 「またやってみようか」。節子さんと二人で笑う。

(安中支局 菅原龍彦)