絹人往来

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父の背見て技術学ぶ 稚蚕飼育 飯塚保雄さん(79) 片品村摺渕 掲載日:2007/05/05


かつて稚蚕飼育に使った道具を手に、当時を振り返る飯塚さん
かつて稚蚕飼育に使った道具を手に、当時を振り返る飯塚さん

 稚蚕飼育農家として、農家から預かった蚕種をふ化させて育てた。家は江戸時代から続いた養蚕農家。祖父・大作さんの代には「飯塚農養館」の屋号を掲げていた。
 「父(正次さん)のころは村中の農家から蚕種を任された。蚕を桑の葉が大きくなる時季に合わせてふ化させるが、温度管理やタイミングが難しい。そうした蚕の世話に付きっきりだった父の背中は今でも目に焼きついている。私も知らない間に父の技術を身に付けていたんでしょう」
 養蚕の基幹となる稚蚕飼育は経験と知識を積んだ専門の農家に任されていたが、それでも気の抜けない難しい仕事だった。
 「ふ化した蚕は、たくさん桑の葉を食べてどんどん大きくなる。少しでも餌が切れると成長が鈍り、繭が売り物にならない。預けた農家にとっては死活問題だから、食事や睡眠以外は蚕から離れず桑を与えた。桑が不足して昭和村まで買いに行くこともあった」
 地区の養蚕農家と共同出資で1964年に武尊稚蚕共同飼育所を設立。正次さんとともに運営の中心的な役割を担い、飼育だけでなく蚕を農家に運ぶ仕事もこなした。
 「大事な蚕だから、つぶさないように桑の葉でゆったり包んで運んだ。早く届けて広げないと熱がこもって死んでしまうので、配達は時間との勝負だった」
 養蚕所得は農家の貴重な現金収入だった。春蚕、夏蚕、秋蚕の年3回の出荷が一般的だったが、より多くの収入を得るため、時季の遅い晩秋蚕も手掛けた。
 「2月に買い物をして春蚕の収入が入る7月に払ったこともあった。この辺りの農家はみんなそうだった」
 国産生糸が安価な輸入品に押され需要が減少。70年代から徐々に付加価値の高いリンゴ栽培に軸足を移したが、養蚕は54歳まで続けた。
 「他界した父は9人の子供を育て上げた。私も蚕で息子を高校に入れることができた。夢中で蚕に向かい続け、10年前には脳こうそくで倒れたが、今こうして家族ときょうだいが元気にしていられるのは、何よりお蚕のおかげ。感謝の気持ちでいっぱいだ」

(尾瀬支局 霜村浩)