絹人往来

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伊勢崎絣 下職まとめヒット作 小保方 正之さん(86) 伊勢崎市曲輪町 掲載日:2008/09/19


「仕事をしていたころは年中神経を使っていたよ」と話す小保方さん
「仕事をしていたころは年中神経を使っていたよ」と話す小保方さん

 1902(明治35)年創業の、祖父の代から続く機屋の3代目。30歳のころ、父の利三郎さん(故人)が織物組合の役員になったことから、働きに出ていたのを呼び戻されて家業を継ぎ、伊勢崎絣(かすり)を生産してきた。
 伊勢崎絣は分業で仕上げていく。どのような柄にするかを下請けの職人に注文し、出来上がったものを取りまとめる。だからこそ、職人との関係は大事だった。「腕の良い下職(したしょく)を持っている人が良い絣を作る。朝から晩まで仕事でかかわるんだから、親せき以上の付き合いになった」
 現在のファッションと同じように、絣にも流行がある。売れ筋を見極めようと、問屋に行ったり、東京、名古屋、大阪など各地のデパートの販売員に聞いて回った。それでも確実に売れるかどうかは分からなかった。
 「今年はこんな柄がはやりそうだと聞いて、足利にいた図案専門の職人と相談して柄を決めた。自分でもデザインした。これなら売れるだろうと思ったものが売れず、意識していないものが売れたり。当たるか当たらないか分からないから、この商売は難しいんだ。一足す1が5にも6にもなれば、マイナスになることもあるんだからね」
 最盛期は55年ごろ。戦争が終わり、物がない時代から、日本が落ち着きを取り戻しつつあるころだった。
 「何を作っても売れた時代だった。夢中になって仕事をしたよ。当時は伊勢崎に機屋が300軒ぐらいあったけど、売り上げは5番以内だった。サラリーマンの月給を1日で稼いだこともあった。景気が良かったんだ」
 だが、そんな時代も長くは続かなかった。洋服が主流となり、需要もだんだんと減っていった。自身が年を取ったこともあり、15年ほど前に会社を畳んだ。息子たちにも跡は継がせなかった。
 「普段着物を着ないから、織物の規模も小さくなってしまう。世の中の流れで仕方ない。げたから靴になったように、着物から洋服になった。着物がなくても困らない時代になったんだ」
 仕事をしていた当時の道具はほとんど処分した。手元に残ったはかりを見つめながら、しんみりと語った。

(伊勢崎支局 高瀬直)