紡績機 改造記録、図面に“再生” 佐藤 進一さん(88) 富岡市富岡 掲載日:2007/11/28
当時の大学ノートを基に描いた
図面を説明する佐藤さん
戦後勤めた富岡市内の町工場で、スクラップ同然の綿紡績用機械を復元、絹糸紡績用に改造した。勤め先は当時、旧中島飛行機の協力工場から非軍事産業に転換中で、絹糸紡績に目をつけた。
「経営者の親族が動き、兵庫県の鐘淵紡績(当時)高砂工場から戦災で焼けた機械を譲り受け、1947年初めに貨車に載せて運び込んできた。英国製らしかった」
「構造が複雑。紡績を知らなかったので、新町の鐘紡で教えを受け、英国の原書を訳しながら読んだ。フレームの狂いはなかったが、使える部品がない。高崎の鋳物業者にも頼み、ほとんど新しく作った。チームを組んで1年半がかりで完成した時は、万歳するほどうれしかった」
この機械で撚(よ)りをかける前の糸状に加工、輪具(りんぐ)精紡機にかけて巻き取り、絹紡糸を産出した。
「毎日16時間稼働すると、20日間で960キロ。着物の横糸などとして伊勢崎、桐生、結城(茨城)などの産地へ販売した。原料は片倉工業から出る屑くず糸や屑繭を当初あてにしたようだが、実際は上田(長野)方面から主に集めていた」
ローラーには不純物を取り除く役目などを持つ針が付き、1000分の1インチ単位の調整を必要とした。すき間ゲージと呼ぶ器具で測定、セッティングに当たるローラーマスターの任務にも就いた。1セットしかない機械のメンテナンスは夜中だった。
出身は東京だが、父の郷里、富岡に戦後移り住んだ。
「学校卒業前に鐘淵紡績の就職試験に合格し、配属予定先が兵庫県内の工場だった。東京から遠く、行けなかったが、そこから来た機械を見て、運命を感じた」
原料が次第に集まりにくくなり、資金繰りも苦しくなり始め、工場が計画した設備増強は実現しなかった。58年の退社後しばらくして工場は操業をやめた。跡地は市営住宅になり、機械の行方も分からない。だが、富岡の工業発展の一端を担ったと自負している。
改造した紡績機を記録に留めておこうと思い、2年前、大学ノート4冊を基に、記憶を呼び起こし、図面にした。実寸の5分の1でローラーの回転数や歯車の数も書き込んだ。大きな図面をみると、当時の思い出が一瞬にして浮かび上がってくる。