絹人往来

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開墾地 もくもくといい繭作り 石原 英治さん(77) 太田市北金井町 掲載日:2006/12/21


かつて養蚕を行っていた場所に立つ石原さん
かつて養蚕を行っていた場所に立つ石原さん

 太田市有数の養蚕地帯と言われる強戸地区で農家の長男として生まれ、数年前まで養蚕を続けた。養蚕を始めてから50年以上、遊ぶことなくまじめに頑張り続けた。
 「養蚕が有名なのは、正確にいうと強戸地区の北側。北金井町や菅塩町の辺りなんだよ。八王子丘陵があり、開墾地だから畑や田んぼがだめでね。農家が生活するためには、桑畑を作って養蚕をするしかなかったんだよ」
 小学校を卒業後、1年間の農兵隊経験を経て、実家の養蚕を手伝った。周囲も養蚕農家で、自然な流れで仕事に入った。
 「小さい時から周りの人の仕事の様子を見ていたから、すぐに働けた。もちろん、いい繭を作ろうという気持ちはあったけど、特に考えて工夫したこともなかった。体が知っていたんだよ」。生活のかかった養蚕だが、気負うことなく、もくもくと働いた当時を振り返る。
 養蚕期間中はいっさいの遊びを控えた。周囲の若い仲間も一生懸命働いており、遊びに行こうという気持ちはなかったという。
 「蚕は生きものだから、1日3回ちゃんと桑を食う。外で遊んでいる時間はなかった。ましては無駄な金を使う余裕だってない。ただただ、まじめにやるだけさ。この辺の養蚕農家はみんなそうだったよ」
 「それでも、養蚕がない時期くらいは仲間と旅行に行きたい。けれど、野菜や米をやっていないから、晩秋以降はそんなに収入がなかった。それでこの辺の若い人はみな、(桐生市)広沢町まで土木の仕事で出稼ぎに行って、生活費と旅行に行くためのお金を稼いだ。ぜいたくな旅行じゃなかったけど、年1回の楽しみだった」
 時が流れ、肥料や野菜の品種改良が進み次第に周囲の農家は養蚕から離れていった。そして、石原さんも半世紀以上かかわった養蚕に幕を閉じた。
 「寂しかったとかそういう気持ちはない。養蚕は生きていくために精いっぱい続けてきただけだから」

(太田支社 松下恭己)