蚕棚 養蚕の合間に畑仕事 塚越 まきさん(79) 太田市由良町 掲載日:2006/06/15
「給桑台やかごは今も物を干す時には使う」と話す塚越さん
母屋南側に建つ作業棟兼農機具棟には、蚕の飼育に使用したかごや給桑台、毛羽(けば)取り機が今も残る。5人きょうだいの長女として生まれ、繁忙期は子供ながらも駆り出されて桑摘みを手伝った。兄の戦死などもあって継いだ家業は、養蚕と米麦中心で、桑畑が約80アールだった。
「人さし指に鉄製のツメをはめて桑を摘み、ざるに入れるんですよ。いっぱいになると、容量の大きいざまに空ける。4、5回でいっぱいになった。蚕が待っているので、摘んで帰るのが忙しかった」
「お蚕だけじゃなかったですからね、この辺りは。小麦、大麦、水稲、陸稲を作っていた。春夏秋の年3回、繭をとって出荷し、合間は畑や水田。だから農作業は空きなしでした」
蚕棚は玄関を入って右脇の土間にあった。柱と柱の間に竹の棒を渡して作った11、2段の棚。縦1.5メートル、横1.2メートルほどのかごを各段にのせて蚕を飼った。手前側に4棚、奥にも4棚。
「給桑台を使って桑をあげたり、残桑を取り除いたり。真ん中部分で作業をしてたんです」
現在の建物に改築した後も、数年は同じ場所に蚕棚を設けていた。「5齢になるとかごから出し、上簇(じょうぞく)まで外に出す訳です。母屋や作業棟に場所があり次第、お蚕を出したものでした」
「いつごろの夏だったでしょうか、5齢になったので、蚕を外へ出そうとしたが、その年は雨続き。それも小雨じゃなく大雨。出した蚕の下に水が入り込むため、水を出すのが大変だった。土間まで浸水してましたから」。天候に左右されやすい農業だが、養蚕も例外ではなかった。
土間には織機があり、戦後間もない1950年ごろまで母が着物を織ってくれたという。「織物を紺屋(こうや)が回収に来るんですが、持って来たカタログを見ながら、あれがいい、これがいいと選んで染めてもらいました。機織りは私は見ていただけ。何の手伝いもできなかったんですよ」
養蚕業は70年に閉じたが、寸暇を惜しんで母が織ってくれた思い出の着物や羽織類は、今も20枚ほど保管してある。