製糸 品質追究粘り強く 高橋 吉広さん(76) 前橋市本町 掲載日:2006/12/27
思い出の感謝状を手にする高橋さん
「生糸を取るのは奥の深い仕事。農家から繭を渡されると、そこからは工場の責任。品質の良しあしは私たちに掛かっていると覚悟していた」
実家が織物業を営み、絹織物になじみが深かったことから大学を卒業した1953年、花形だった製糸会社に就職。繭をゆで、糸を取る作業に取り組んだ。
「糸がうまくほぐれずに出来る『節』は織機に引っ掛かると布地が切れたり、布地の表面に凸凹ができる原因となる。少なくすることが一番の仕事だった」
節の少ない糸にするため、ほぐれやすい状態を作り出そうと、ゆで方に神経を使った。
「天候や繭の状態で、温度を調整しなければならない繊細な作業。0.1度の調整でガラリと変わる。自分の判断で結果が出るので、喜びと反省の繰り返しだった」
丁寧な作業を心掛けていたが、節を完全になくすことは難しい。高い品質を求める織物業者からは度々、苦情が来た。
「厳しい言葉ももらったが、品質が高くなければものは売れないと思って、一層いい糸を作ろうと励んだ」
繭から糸を取り出す繰糸工程でも、節が問題になる。機械に引っかかって切れてしまった糸が、隣で巻き上げている糸に絡み付いてしまう「二本上がり」だ。
「二本上がりを防ぐため、同僚と一緒になって揚返機の改良に取り組んだ。2本のブラシを機械に取り付けるだけの簡単なものだったが、効果は絶大だった」
会社にいた34年間のほとんどを工場で働いた。入社してすぐに、製糸業を襲った不況で負債を抱えた会社を支えようと奮闘した。当時、一般的でなかった「無停転操業」を導入。自動繰糸機を休みなく稼働させることに成功して、生産効率を上げた。
「機械の速さと人の作業の速さのバランスを考えるのに苦労したが、上司から直接ねぎらいの言葉をかけられた時、会社の役に立てたと思って感激した」
長年の現場経験を持つだけに、工場職を退いた後も、後輩から連絡が来ると工場に駆けつけた。1987年に退職するまで頼りにされた。
「一目見て糸の太さが分かると会社で“デニールの高橋”とあだ名されたことは今でも誇り。製糸は縁の下の力持ちで、若くなければ出来なかった仕事だった。今も感謝状を見ると、長年の苦労を思い出すよ」