絹人往来

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運搬作業 蚕室と母屋、ロープで 五十嵐貞雄さん(59) 太田市下田島町 掲載日:2007/11/07


自宅前で養蚕について語る五十嵐さん
自宅前で養蚕について語る
五十嵐さん

 「親が容易じゃない思いをしてるのを分かってたから、学校から帰ってくると、自然と手伝いするようになったんさね。小学校高学年のころだった」
 4人きょうだいの長男として生まれた。70アールの桑畑を所有し、年3回の養蚕のほか、養鶏などで生計を立てていた。
 「家を継がなきゃなんねえし、幼心に『仕事を覚えよう』って気もあった」
 子供にとっての仕事は桑の葉を摘むことだった。学校から帰って桑畑に向かった。小蚕(こば)飼い用の小さい葉を摘む時は、右手人さし指に鉄製のつめを付けた。切れ味鋭く、スムーズに葉を摘み取ることができたが、ほかの指を切るなど、けがも絶えなかった。
 摘んだ葉は、母のエチさん(82)の手でさらに細かく刻まれた。
 「1齢、2齢期の稚蚕は小さくしてやらないと食べない。人間の子供でも子育てには手間がかかる。蚕も一緒さね」
 子供たちを巻き込んだ作業が本格化するのは1週間から10日。ハイライトは、ロープを伝う滑車を使った蚕の運搬作業だった。
 蚕室があった小屋と母屋のそれぞれの2階をロープでつなぎ、上簇(じょうぞく)する直前の蚕を入れたバケツを滑車にくくり付け、ロープを引っ張って運んだ。
 「母屋と小屋の距離は20メートルくらい。こっちは母屋にいて、小屋の方で蚕をバケツに入れたら、『引っ張るぞ』と大声を上げてから引くんだ。高さ3メートルの所をバケツに入った蚕が通るわけだけど、落としてせっかくの蚕を駄目にして、しかられたこともあった」
 20年ほど前、父(故人)の体が弱くなったのを機に勤めていた会社を辞め、農業を継いだ。しかし、養蚕は徐々に衰退し、桑畑はネギやホウレンソウなどの露地野菜に変わっていった。
 自宅敷地にある倉庫には蚕具が数多く残っている。
 「手伝っていた子供のころは農業に活気があった。また、あのころのような活気が戻ってくるのを願っている」

(太田支社 塚越毅)