絹人往来

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競争意識 良い繭求め技術指導 高瀬 節さん(79) 太田市薮塚町 掲載日:2006/08/17


「共同飼育所」の跡地前のヒマラヤスギを眺める高瀬さん
「共同飼育所」の跡地前のヒマラヤスギを眺める高瀬さん

 「“隣んち”より質の良い繭を作りたい」―。養蚕農家への技術指導に力を尽くした38年間、農家の人たちが抱き続けたこうした競争意識を肌で感じた。終戦間もない1946年4月、高瀬節さん(79)は県新田太田養蚕農業協同組合連合会に就職。養蚕技術指導員として、来る日も来る日も地域の養蚕農家を回った。
 初任地になったのは旧薮塚本町。同町農協で席を並べたもう一人の指導員とともに、当時町内にあった約600軒の養蚕農家を受け持った。自転車を引いて訪ねた農家は1日50―60軒に上った。
 嫁いだばかりで飼育のノウハウも分からないものの、しゅうとめから養蚕の仕事を強制的に引き継いだ若い女性も多かった。蚕を死なせるわけにいかない。しゅうとめからのプレッシャーを感じて精神的に行き詰まり、「教えてほしい」と頼み込んでくる人もいたという。
 農家を指導する際は通常、「稚蚕室」と呼ばれる飼育部屋に入り、蚕の状態を確認する。稚蚕室は住居のうちの「一番いい部屋」を使うと決まっていた。「あそこの家の繭はどうだい」。助言していると、近所の成育状態を探ろうとする農家側からよく尋ねられた。
 「稚蚕室は、指導員だからこそ入れてもらえる。近所の人ではまず無理だった」と振り返る。どの農家も近所には育て方を明かしたくない―というプロ意識を持っていた。だから高瀬さんに尋ねた。
 2度目の薮塚本町勤務となった67年には、農水省や県などの補助事業で、広さ約2000平方メートルの「共同飼育所」が開設されることになり、準備に追われた。町内の320軒の養蚕農家が参加し、当番制で飼育する。悩みながら一人で飼育していた若い女性は、近所の農家との品質格差が解消すると喜んだ。
 「でも、それからは『太田や笠懸には負けたくない』とほかの地域がライバルになった」。生産体制が変わっても、良い繭を作るために適度の競争意識は欠かせなかった。
 妻の雅子さん(76)は「忙しい時期は、泊まり込み。家に帰ってこない日も多かったね」と目を細める。
 開設に汗をかいた共同飼育所があったのは旧薮塚本町役場(現薮塚本町総合支所)の南の県道前。建物は取り壊され、開設当時に植えられたヒマラヤスギだけが往時をしのばせている。

(太田支社 塚越毅)