農業研修生 付きっきりで養蚕指導 須藤 勝次さん(75) 安中市安中 掲載日:2006/11/25
研修生と過ごした蚕室にたたずむ須藤さん
1970、80年代、全国の農業研修生を受け入れた。「県立農業大学校(当時)からはもちろん、石川や岩手、熊本、大分などあらゆるところの農業後継者が50人は来た」
旧蚕糸高(現安中実業高)を卒業後、家業の農業に従事。1960年ごろから経営を任されるようになり、養蚕の拡大を進めた。蚕室を増築し、69年には年間出荷高が3トンに達した。
「数年後には4トン近くにのぼり、県内でも3本の指に入る規模になった。県から研修生受け入れを頼まれるようになったのはそのころだった」
5月ごろから毎年3、4人が交代で1カ月ほど、住み込みで作業を手伝った。
「八戸の高校生が電車を乗り継いで一人でやってきたこともあった。後で親御さんからお礼に魚が送られてきた」
1カ月も一緒に過ごすと家族同然の付き合いになる。
「いろんな研修生が来た。中には3カ月もいた子がいて、私のことを『おやじさん』と言いながら、よく一緒に晩酌した。研修生ではないが、都内の学生が『日本の農村生活を体験したい』という留学生を連れて、何日か過ごしていったこともあった」
滞在中は養蚕にかかわるあらゆる作業を、一日中付きっきりで指導した。
「桑切りの作業など、慣れていないのに無理してこちらのペースに合わせようとするから、桑の束が小さいままということがよくあった。指を切る子もいた」
里心がついた研修生の中には、夜中に公衆電話で家族と話しながら泣いてる人もいたという。
他人の子供を預かる以上、体調には配慮した。食事は妻の初枝さん(75)が腕をふるった。
表彰や会議など全国の生産者と顔を合わせる機会には、成長した研修生と再会することもある。
「40、50歳の働き盛りで元気にやってるのを見ると、張り合いがある。受け入れ始めた時期はちょうど保護司を始めたころで忙しかったが、今でも節目ごとに連絡のある人もいて感慨深い」