転作 コメ100俵から繭3トンへ 尾内 佳男さん(80) 太田市只上町 掲載日:2007/3/27
作業場に残る昇降機を前に「他地域の人には考えられない転作だったと思う」と話す尾内さん
「1971年から4年間、農事支部長に就いた時、コメの減反政策が始まった。加算金が1反(10アール)当たり5万円。ちょうど繭の値がよくなっていた時期で、思い切って水田をすべて桑園に切り替えた」
米麦や養蚕を営む農家に生まれ、主力のコメを100俵(1俵=60キロ)供出したこともあった。養蚕業が下降線をたどる中、70年代に桑園を増やし、養蚕専業になったのは全国的にも異例だったという。
「よその人には考えられないことだったと思う。コメ(作り)をやめるって言ったら、妻もびっくりしていた。でも、ここ(下只上地区)の農家はみな養蚕を増やしたんだ」
一帯は足尾鉱毒事件の被災地。当時はまだ県営の公害防除特別土地改良事業が始まる前で、米麦に比べて桑の被害が少なかったのも、心理的に後押しした。
「転作に共同で取り組むと加算金がさらに1万円多くもらえたので、近隣の7人で組合を作って稚蚕飼育所を開設した。桑園転作を決めると耕運機も脱穀機も籾摺(もみすり)機も、みんな近所にくれちゃったよ。養蚕は場所をとるので、邪魔になるからね」
繭生産はそれまで春、夏、晩秋の年3回だったが、軽量鉄骨造り2階建ての作業場を165坪(545平方メートル)に拡大。生活が大きく変わった。
「春2回と夏、初秋、晩秋、晩々秋の年6回。作業場に蚕がいるのに、もう次の稚蚕を準備していた。想像を絶する忙しさだった。蚕をやっていない家の人に手を借りて桑切り、桑くれもやってもらった。上簇(じょうぞく)間際で3人、上簇時には10人ほど手伝いを頼んでいた」
「日増しに繭の値が上がり、1キロ当たり2300円で売れた時期で、繭が14、5キロ入った袋を作業場の2階窓からトラックに積み込んだ」
最盛期は1日50袋。73年には年間出荷量が3トン近くに達した。組合の7人は、いずれも年間1.5―2トンを出荷し、「一トン会」と呼ばれていた。
短歌をたしなむ妻のふみ江さんは、往時の模様を後にこう詠んでいる。
晩春の繭大き目に巣作りて 回転簇に見入るうれしさ