稚蚕共同飼育 合理化実らせ天皇杯 備前島魁吏さん(83) 太田市備前島町 掲載日:2006/09/15
自宅前に残る共同飼育所跡で、往時を語る備前島さん
備前島養蚕組合の稚蚕共同飼育所が自宅前に完成したのは1962年4月。地下スペースを含め面積は203平方メートルで、135箱分の飼育能力を備えていた。
「当時の農家収入は養蚕、蔬菜(そさい)、米麦の順。桑園の中に間作としてネギやホウレンソウなどを作っていた。特に春蚕期は北海道に出荷する春ダイコンの収穫と重なって忙しく、省力化と経営規模拡大を目指して共同飼育を始めた」
組合員30人。80アールの共同桑園を確保し、3齢配蚕を目標に稚蚕を飼育した。作業は当番制。給桑と、ふんなどの除去(うらとり)が中心で、主力は女性が担った。
「稚蚕は秘密飼い、と言われたくらい。親からの伝授がなく、養蚕教師が幅を利かせたほど。子供のうちに覚えるのは葉の摘み方くらいだったから、特に嫁に来たばかりの人たちに喜ばれたね」
蚕が小さいうちは少人数で済むが、大きくなるに従って多くの労力が必要になる。40―50人も要する日は各組合員が夫婦で出た。
「会計主任の傍ら、掃き立て量などを基に出番の回数を決める役目も負っていた。皆、家でやるよりいいからと不平不満は出なかったが、(自分は)毎日出ざるをえないから容易じゃなかった。早く配蚕になればと願っていたよ」
一貫作業による近代化・省力化養蚕は、1年目に早くも認められ、農林大臣賞に輝いた。だが、2年目に思わぬ危機に遭遇する。
「5月22日に鶏卵大の雹(ひょう)が降った。死者や家屋の倒壊が出たほどで、畑の桑には葉一つなかった。前年に大臣賞をもらった組合が、これじゃしょうがないと、埼玉や前橋など至る所へ手を伸ばして桑を確保した」
この年、第2回日本農業祭の「養蚕合理化の部」で最高栄誉の天皇杯を受賞した。
「大雹害を乗り越え、天皇杯受賞を機に各地から飼育委託が舞い込むようになり、隣接する自分の土地を活用して飼育所を増床した。山形や新潟、三重などからもよく視察に来ていたよ」
翌年の64年から解散する78年まで組合長を務め、今も天皇杯と表彰状を管理している。